私は以前より、
誕生日祝いに関して、
世に投げかけたい思いを持っている。
それは、誕生日は年単位ではなく、月単位、つまり毎月祝おう!
というものである。
理由は次の通りなのだ。
誕生日というのは、得てして年月の経過を感じるものである。
あー、あれからもう1年か……。と思うより、
あー、あれからもう1ヶ月か……。と思う方が、
それまでの生活を見直す機会が増える。
習慣を改めることは容易ではないから、
年単位ではなく、
月単位で時間の経過を味わうチャンスが増えれば、
何かと自覚しやすいに違いない。
次に、お祝いすることで、
1ヶ月一生懸命頑張って生きてきたことへのご褒美になる。
脳というのは、飽き易いらしい。
従って、
ご褒美を与えて脳を喜ばすことが、明日を生きる勇気に繋がる。
自分は独りではないのだ、と、救われ人もいるだろう。
もしも愛する恋人が、
「ハニー♪今日は、ハニーの月誕生日だね。僕からの今月の誕生日プレゼント」
と言って花束を贈ったとする。
受け取ったハニーは思うだろう。
ついに白馬に乗った運命の王子さまの出現……、と。
感動した彼女は、
ともすると、一気に結婚を決断するやもしれぬ。
好きな男性が、月誕生日(=毎月生まれた日)を祝ってくれたら、
その女性は、その人の存在を生涯忘れないだろう。
たとえ、後に別れることになったとしても、
受けた優しさは消えることなく、彼女を生涯勇気付ける。
と、私は思うのだ。
以上が、“月誕生も祝おう”と推奨する理由である。
それに対し、
愛する人や親しい人が亡くなった後、
命日にその方のご冥福を祈り、
生前にその方が好んだ物やお花をお供えしたりする習慣があったりする。
命日とは、
同月同日(1年に1度)の祥月命日(しょうつきめいにち)と、
月ごと(毎月)の同日の月命日(つきめいにち)があって、
その両日共に、お供えをする人は少なくない。
もし、私の息子が、
この世から私が姿を消した後に、
『ママ天国はどう? 今日はママの祥月命日だね。ママはゴリラが好きだったから、特注でゴリラ最中を頼んで作ってもらったんだよ。それとママの好きな胡蝶蘭。奇麗だね」
とか、
『ママ天国も、そろそろ花見?こっちもあと2週間ぐらいで桜並木が華やぎそうだよ。今日はママの命日だね。巣鴨の塩大福と西新井大師の煎餅、遠いのにママはわざわざ買いに行ってたよね。車飛ばして買って来たよ。今月の花はカサブランカにした。天国まで香る?」
などと言って私を偲んでくれたとしよう。
もちろん嬉しくてたまらない私は、天国から叫ぶだろう。
「右京くーーん!聞こえるーーー? あなたの優しい気持ち、天国に届いたわよ。ありがとう。ママは天国から毎日、あなたの幸せを祈っているわよ。見守っているわよぉーーーーー!」、と。
その一方で、
私は天国から下界に置かれたゴリラ最中を見つめ、思うだろう。
最中の皮、サクッ、あの歯ざわり、ゴリラ最中……。
そして、もう一度叫ぶのだ。
「右京!!なんで今になってから贈るのよ!生きている間に、何回誕生日があったと思っているの!年に12回贈るチャンスがあったじゃない!その時にゴリラ最中を贈ってくれていれば、食べることだってできたじゃないの!まったく気が利かない子ね!」、と。
まあ、私には、
ゴリラ最中を注文してくれるほど行き届いた優しい息子も、
どうしようもなく不出来な息子も、
右京という名の息子もいないのだが……。
「ボンちゃん。ゴリラも、月誕生日おめでとう!って、毎月季節のフルーツを贈ってもらったら、嬉しいでしょ?」
