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2008年3月

2008.03.17

卒業式の言葉

「心とは何ぞや」という素朴な問いを持った私は、4年前に武蔵野大学に入学した。

社会人になってからも、決して学問とかけ離れた生活をしていたわけではないが、課題をこなすのは相当きついものだった。

もうこの大学を訪れることもないだろう。

そう思うと、何気無く見ていた光景までもが離し難いものに思えてきた。

多くの方々が贈る言葉を贈ってくださった。

「人を許すことは大切なんだよ」

「思いやりの心を忘れずにね」

「人との縁に感謝してね」

「自分の掲げた高い理想に向かって自分を押し上げよう」

「達成感と、誇りを心の糧にしてね」

含蓄のある、あり難い言葉ばかりだった。

 

懇親会になり、私は、ある先生にお別れの挨拶に行った。

「先生を、もう感じられなくなるんですね…」と私が言った時、先生は間をあけずに真顔で行った。

「卒業しなきゃいいのに…。なんで卒業するの?」と。

あまりにまっすぐな言葉が、心の深部に届いた気がしてびっくりした。

次の瞬間、どの言葉よりも心に沁みてきた。

 

 

卒業しなきゃいいのに…。なんで卒業するの?

この言葉、なぜこんなに心に沁みるのだろう……。

 

 

「ボンちゃん。思い出になっていくのを感じるって、哀しいね」 

 

 

 

 

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2008.03.13

「情」が「理」を救う その6

人は何によって感動するのか。

何によって心を打ち、魂を震わせるのか。

具体例を挙げて考えてみたい。

 

 

①アスリートの姿

②職人の姿

③動物などの一途さ

④やさしさ・思いやり・心遣い

⑤誰かを喜ばしたとき・誰かに喜ばされたとき

⑥心ある言葉

⑦誰かと共感できた時

⑧達成感を得た時

⑨誰かの生きる姿勢

⑩健康のあり難さ

⑪気持ちを汲んでくれる医師に出会った時

⑫自由でいられること

⑬人に役立つ自分だと思える時

⑭人に頼られる自分だと思えるとき

⑮愛されていると感じる時・愛していると感じる時

⑯幸せを願う思い・見守られる思い

⑰教え

 

芸術

①ミュージカル・コンサート・演劇など。

②文芸

③絵画・彫刻・手作品、伝統工芸品など

④音楽

⑤映画・ドラマ

 

自然

①宇宙―地球・太陽・月・海・空・風・大地・湖・川・運河・花・緑……。

 

 

 

まだまだあると思うが、思いついた範囲でざっと記してみた。

 

そこにある共通点は、なんだろう。

愛、

思い、

共感、

純粋さ、

自然美、

情熱、

純粋な思い、

熱い思い、

ひたむきさ、

正義感、

気概、

心意気、

などが見えてくる。

 

 

これを、細谷功『地頭力を鍛える』東洋経済新報社2007に記されていた「理」「情」「知」で見てみると、

企業が求める地頭力の高さ、いわゆる「理」思考様式がもたらす論理的なもの、漢字一文字で表すと「理」のイメージのものではない。

また、記憶力の高さがもたらしたような、漢字一文字で表すと「知」でもない。

どちらかというと、人の心を察する力を持つ、対人感性力の高さ。漢字一文字で表すと「情」。動物を筆頭に、「直観型」思考様式を持つ存在である。

 

「情」とは、大辞泉には次のようにある。

      ・物に感じて動く心の働き、感情。

      ・他人に対する思いやりの気持ち。なさけ。

      。まごころ。誠意。

      ・味わい。

 

人生の目的・目標に向かって、価値あるものに熱く燃える思い、それを感じることで、我々は感動し、心打たれ、魂を震わせているのである。

芸術は、そこに感情の流れのようなものを感じるからだろう。

 

 

 

つづく

 

 

 

「ボンちゃん。次回で、この記事は完了だね」

 

 

 

 

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2008.03.12

「情」が「理」を救う その5

この記事が、こんなに長くなるとは思わずに書き進めてきたが、本来、最初に記すべきである、何を考察したいがために、書いているのかを記しておこうと思う。

 

目的:

文明社会は「理」思考様式にどっぶりと浸かっていることで、文明人の心は蝕まれているように見える。いったい、心という見えないものは、どういう状態に置かれると病むのだろう。その仕組みを究明し、心、魂は、何を求めて止まないのかを考察したいと思う。

 

現代人は、心に多くの闇を抱えていると言われている。

そこで、人の思考様式の変化に注目してみた。

現代社会における一流の認識手段となっている「理」思考様式。これが人の心へ、どういう影響を考えているのかを参考文献を利用し、調べてみることにした。

 

人は、どういう天分で生まれてきて、どういう経験を積むことで、どういう心の状態になり、どういう人となって、今を生きるようになる」という観点からの検証である。

その天分は様々だが、

「理」思考に偏っている世界での経験を長く積むと、「情」を軽んじ、乾いた心の状態になり、殺伐とした人となって今を生きるようになるということが見えてきた。

換言すると、理性を用いて物事の真理を掴む思考様式をあまりにも重んじた結果、文明人の心は乾いてしまったということだろうか。

 

次に、「理」思考様式とは異なる、「直観型」思考様式に注目してみた。

 

 

次に、我々は、何によって感動するのか、何によって心を打ち、魂を震わせるのかを具体的に考え、

「心、魂は、何を求めて止まないのか」

を究明し、いったい何が、闇に放たれたような文明人の心を救うのかを考察したいと思う。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

「ボンちゃん。ゴリラ界にも、だいぶ勘違いしちゃっているゴリラって、いるの?」

 

 

 

 

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2008.03.11

「情」が「理」を救う その4

次に瞬時に物事の本質を掴む直観型の思考様式を考えてみたい。

「直観型」思考様式とは・・・。

カント出現以前の中世のヨーロッパでは、いま二流とされている「直観型」思考様式が「理」思考よりも優れた認識手段とされ、一流のものとされていた。

 

物には薄いヴェールのようなもが付着していて、それが空気中に浮揚し、人間の体に接触することで、物事の本質が瞬時にわかると考えていたという。

 

思えば、動物は、直観的、瞬間的、直接的に物事の真理を掴む思考様式なのだろう。

画家・詩人・芸術を創造する多くの者も、この思考様式によって創造していると思われる。

 

 

現代社会の思考様式を大別すると、主流という意味では一流っぽいと思われている「理」思考様式、少数派な「直観型」思考様式となるようである。

 

いったい、人はどういう経験をすると、心洗われたり、感動して魂を震わせたりするのだろうか。これを次に考えたい。

 

 

 

つづく

 

 

「ボンちゃん。ボンちゃんも、一瞬で私の心のうちを見抜いている感じがするよ。共通の言葉がないからこそ、本当の意味で、分かり合えるのかもしれないね」

 

 

 

 

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2008.03.10

「情」が「理」を救う その3

理性を用いた真理とは、「A=B」で「B=C」だから「A=C」とする、調査や分析に基づき、物語を構成していく思考様式で、訓練さえ積めば誰でも辿り着ける思考様式であると、『世界恐慌?』週間東京経済2008/3/1号、「知の技法 出世の作法」には記されている。

理性マンは、評価を多く受け続けると、自己中心的な勘違いをし出す危険があるという。

自分の構成能力は誰よりも優れたものであると勘違いするというのである。

従って、専門家になる場合は、注意が必要だと警笛を鳴らし、

勘違いマンとならないためには、認識論哲学を少し理解することで知的防衛がとれるとしている。

 

現在、一流とされている「理」思考であるが、度を過ぎることで様々な影響を人間に及ぼしているようである。

人間関係が希薄化し、社会がどんどん殺伐としている現実。

これらは「理」思考様式によって生じた、人間の心への影響の現れなのだろう。

 

 

 

づづく

 

 

 

「ボンちゃん。ゴリラも、時代の流れと共に、心のあり方が変化していると思う?」

 

 

 

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2008.03.09

「情」が「理」を救う その2

「情」が「理」を救う その1の記事に私が記した内容に加え、短時間ではなかなか上手く伝え切れていない部分にまで、的確に言い表している本を偶然見つけた。アービンジャー・インスティチュート・ジャパン/監修『自分の小さな箱から脱出する方法』2008大和書房である。

この本では、「理」の世界に生きる人間が、次第に人間を人間として見ることをしなくなり、人間を物としてみる様を丁寧に検証している。

人間は誰しも、人とは何かを知っており、何が必要かも感じることができる存在であるとして、思いやる心を持ちながら、それをしないことは自分の心の奥にある正義にそむく行動=自分を裏切ることになると表現している。

自分を裏切った人が次にすることは、その裏切り行為の正当化だという。

その結果、次第に自分は小さな箱に入るようになり、他者に接するのもその箱の中からになるといった内容である。

「理」の世界に翻弄されている人間の、心の変化を的確な言葉で表している、実に分かり易い説明だと思った。

 

 

つづく

 

 

「ボンちゃん。ボンちゃんはどうやって「情」に乏しい人間と折り合いをつけているの?」 

 

 

 

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2008.03.08

「情」が「理」を救う その1

文明人の思考様式はというと・・・。

 

文明人は、理性を用いて物事の真理を掴む思考様式を一流の思考様式と考える。これはカント以降に定着した思考様式で、その歴史はまだ約250年間しかない。

 

おとといの記事「兎角にこの世は住みにくい」で、「理」「情」「知」のバランスをとることの難しさについて触れたが、その際に出てきた地頭力が高い人。この人々が、現代の社会を発展させてきている。

 

 

細谷功『地頭力を鍛える』東洋経済新報社2007による地頭力が高い人とは、問題解決のトレーニングによって論理的に考える力が養われている人で、漢字一文字で表すと「理」、WHY思考の人間である。一方で、「情」を軽んじる傾向がある。

 

効率と利益を最優先に追求する第一線を行く企業が“使える人材”だと選ぶのは(注:職種、部署にもよる)この地頭力が高い人と言われている。

 

生き馬の眼を抜くと言われる東京で、人間の目をも抜きそうな勢いで利益を追求する企業が文明社会を築いているという現実。

 

そこに身を置く誰もが、忙し過ぎる環境の中でイッパイイッパイになりつつも利益追求を目指している。

 

「思いやり」とは、他人の身の上や心情を推し量って、同情する。また、配慮する。(『大辞泉』小学館)と、辞書にはあるが、自分を思いやるのさえも出来ない現状で、他者を思いやるのは至難の業であると思われる。

「心」を「亡」くすと書いて「忙」しいと表すように、忙しいと、人は心を亡くす。

 

 

例えるなら、海で自分が溺れそうな時に、溺れている誰かを救うことはできないのと似ているのかもしれない。 

 

最初の頃は、誰もが自分の心に言い聞かせているのだろう。

他者の心のことまで気に留めてはいられる状況ではない。

「情」を軽んじる結果に至ってしまうのはしょうがないのだ、と自分の正義感と折り合いをつける。

 

段々それは仕方のないことだと解釈するようになり、慣れていくのか、当たり前になっていく。

 

自分が他者を思いやる余裕がないのだから、周りの人だって同じで、思いやる余裕はないと推察はつく。

中には、無意識に自分を守ろうとして誰かを陥れたり、悪口を言う人がいたりする。

本音と建前を分けるように、表と影で言っている事が違ったりす「情」軽んじマンが出てくる。

自分が「情」を軽んじていることは、ショウガナイと考えるが、自分が「情」軽んじマンに遭遇=人に「情」を軽んじられた言動をとられると、不愉快さを覚える。 

そんなこんなで、個人主義的で合理的に、科学的な生き方を身につけて生きる近代人は、自己防衛的に自らの立場を守ろうと、人との心と心のふれあいを軽んじていき、

結局、お互いに「情」を軽んじる間柄が成立する。

 

 

でも…、やっぱり不愉快さは残る。心は辛いのだろう。

 

 

 

殺伐とした思いを抱えながら生きている内に、なんだか、イヤになってきてしまう。 

 

状況を理屈では理解していても、人の心は痛んでしまうものなのだろう。

 

心が擦り切れた感覚に陥り、心身共に疲れ果ててしまっている人が急増している。

このことは、心療内科や精神科に通う患者数が年々増えていることが証明している。

 

 

つづく

 

  

「ボンちゃん。ボンちゃんは、心が疲れた時、どうしているの?」

 

 

 

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2008.03.07

愛の味

この料理は、新じゃがと新玉葱のある今の季節にしか作ることができない。

美味しく、簡単に出来る素材料理の一品である。

私はその料理を「おばあちゃんのフライ」と呼んでいる。

「おばあちゃんのフライ」の作り方

〈材料  (超大盛り1人前)〉

新じゃが 2個

新玉葱 2~3個

お酒 少量(蒸し焼き用)

油  大さじ 5程度

塩・コショウ 少々

醤油  適量(お好みで)

〈作り方〉

①新じゃが、新玉葱の皮をむき、新じゃがは1cm程度の厚さで薄切りし、新玉葱は大きめにぶつ切りにする。

②フライパンに油を入れ、強火にし、①を入れ数分間炒めお酒を入れる。

③新ジャガを下に敷き並べ、その上に新玉葱をのせる。ふたをして弱火にし、蒸し焼きする。

④焦げないよう、たまにふたを開けて炒め、ジャガイモがまだ硬いようだったら、少し水を入れ、さらに蒸し焼きにする。

⑤新ジャガが柔らかくなったら、塩、コショウを少々をする。

お皿に盛り、お好みでお醤油をかけて食べる。

※新玉葱がイッパイ入ったほうが、より甘みが出るので、まろやかな味になり美味しいので、2(新じゃが) 対 3(新玉葱)の割合がベストと思われる。

 

昔、祖母が私によく作ってくれた料理なのだが、揚げ物ではないのに、祖母はそれを「フライ」と言っていた。今となって名前の由来はもう分からない。

うちのおばあちゃんの愛の味、作って、食べてみて。

 

「ボンちゃん。ボンちゃんもフライ好きかな?」

 

 

 

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2008.03.06

兎角にこの世は住みにくい

細谷功『地頭力を鍛える』東洋経済新報社2007は、考える力に興味がある人には勉強になる一冊であると思った。

地頭力が高い人ー問題解決のトレーニングによって論理的に考える力が養われている。数学者やプロ棋士に向いている。漢字一文字で表すと「理」、WHY思考。

対人感性力が高い人―人間関係でもまれることで人の心を察する力が養われ、機転がきく。司会者、コメディアンに向いている。漢字一文字で表すと「情」、HOW思考。

記憶力が高い人―暗記型勉強により養われ、物知となる。クイズ王に向いている。漢字一文字で表すと「知」、WHAT思考。

「論理思考力」は(守り)で、「直感力」は(攻め)だと区別しているなど、面白くて惹きつけられる。

夏目漱石の「草枕」の一節も紹介されていた。

”智に働けば角が立つ、情に棹せば流される、意地を通せば窮屈だ、兎角にこの世は住みにくい”

 

近代人の孤独や、エゴイズムを心理的手法によって追求していた夏目漱石。「理」「情」「知」のバランスをとることの難しさ感じていたと思われる心情が現れた言葉なのだろうと思った。

 

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と知りつつも、「言うは易く行なうは難し」となりがちな自分に直面してしまうから、やはり「兎角にこの世は住みにくい」となってしまうのだろう。

 

 

「ボンちゃん。ボンちゃんと私は、対人感性力のお蔭で会話ができているんだね」

 

 

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2008.03.05

ほどほど

仁過ぐれば弱くなる

義過ぐれば固くなる

礼過ぐれば諂(へつらい)となる

智過ぐれば嘘をつく

信過ぐれば損をす

 

 

読売新聞の編集手帳(2008/3/4)に紹介されていた言葉である。

まさにその通りだろうと思った。

その一方で、言葉としては理解していても、“過ぎている”の基準の判断はなかなか難しいのが現実だとも思った。文化や国民性が異なると、日本における普通が、異国における普通ではないということも多い。

上記の仁義礼智信は、他者が介入するケースを指していると思われるが、この場合、他者と自分との間にある空気が読めるようになれば、いい加減としての“ほどほど”加減が分かり、付き合いかの道が開ける気がする。

それに比べ、自分対自分の場合の“ほどほど”は意外に難しいのではないだろうか。

その道の達人と呼ばれる人々や、一芸に秀でている人々、自分の心の納得を重んじる人々は、寝ても冷めてもそのことが頭から離れないほどにひとつのことに没頭し、執着し、情熱を燃やす。

中庸という観点からみたら、その行為は“過ぎている”の域に達しているとも思われる。

特に、無から有を生む創造者たちは、精神の納得の“ほどほど”の基準が一般的なそれとは異なっているように思う。信過ぐれば損をす、に当てはめて考えれば、そのシワ寄せは、愛する者に心遣いが行き届かずに不和が生じるという損として表出していたり、

精神の納得の“ほどほど”に自分の体の“ほどほど”の基準値が追いつかず、寝食を忘れて没頭し過ぎるあまりに体調を崩すといった損として表出しているのかもしれない。

創造者や子供は、根拠の無い自信に向かって自分を信じて没頭して活動するという点において、よく似ている気がする。

“ほどほど”に事を成すのが、最も難しい人達なのかもしれない。

「いいかげんにしなさい!」と、子供を叱る親は多い。でもそのほど加減は、自分の物差しで計った基準の“ほどほど”なのであるから、頭ごなしに注意するのは“ほどほど”にする必要があるように思う。

と、ここまで書いて、ある不思議が生まれてしまった。

絵画、彫刻、建築、土木、様々な技術に通じていた万能人(uomo universale)(ウォモ・ウニヴェルサーレ)だったレオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci) は67歳で人生の幕を閉じた。昔で言えばかなりの長命である。

精神と体の“ほどほど”のバランスの取り方が上手かったに違いないと推察がつくのだが、徹底的な観察や論証を行い実証的な態度でのぞむ精神を持ったレオナルドは、いったいどのようにして、超人的な精神に、体の“ほどほど”を合わせていたのだろうか。

この不思議を解き明かすのは難しいであろうから、私の七不思議のひとつにしておくことにして、

一般的には、精神の“ほどほど”と体の“ほどほど”をうまく調節するのはやはり難しいように思う。

 

考えれば考える程、“ほどほど”という言葉が使えなくなりそうだから、“ほどほど”を考えるのは、もうほどほどにしようと思う。

 

 

 

「ボンちゃん。“ほどほど”は奥が深いね」

 

 

 

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2008.03.04

羊羹レポート

題: 客人にお出しする羊羹の大きさについての考察

 

羊羹とは、いったい何センチの厚さで客人に出すのが理想的なのだろうか。こう思い悩む人は少なくない気がする。羊羹は客人には厚めに出すものだと昔から言われていると聞いた事がある。

最近では、羊羹会社が販売する羊羹の包み紙に、目安となる一切れの切れ目が記されてある。これも各社微妙に異なっている事が多い。糖分の量の記載が無い故、甘さの比較は、私と友人の感覚による判断に基づくものとなるが、甘さに大きな差異は感じられないと思われる、とらやさんと米屋さんの羊羹を比較することにした。一切れ(切る目安が示された大きさ)の大きさを実測し、大きさ、見た目を比べ、客人にお出しする理想的な羊羹の大きさについて考察したい。

 

2008年1月22日、とらやさんの羊羹を食した際に実測しておいた。

 

夜の梅という名の竹皮包羊羹(390g)

8等分に分割する目印がある。

一切れの大きさ(約48g)

縦53mmX横23mmX高さ30mm程度

実際に食し、量が適量であるかを検証した。

健康を気遣った食を追究する私が判断しても、量がやや少ない気がした。同席していた客人である私の友人も同意見であった。

外から見た様子と感じは、一切れ約48gをお出しするというのは、若干少ない気がするが、二切れ96gでは少し多すぎる気がするという意見も共に一致した。

 

 

2008年3月4日、米屋さんの羊羹を食した際、実測して見た。

 

米屋さんの極上羊羹、大納言という羊羹(400g)がある。

7等分に分割すると一切れ、約57g。

縦54mmX横27mmX高さ27mm程度の大きさとなる。

 

 

 

見た目では、一切れ約57gがほど良い量であるように思った。実際に食してみると、量も丁度良い気がした。今回同席していた客人である私の友人(とらやさんの羊羹検証時と同じ同席者)も同意見であった。

 

 

今回の実験を通して、一切れの羊羹の理想的な大きさは、米屋さんの目印である縦54mmX横27mmX高さ27mm程度、重さが約57g程度が丁度良いという結論に至った。食べ物には好みがあり、目安を決めるのは難しいが、とらやさんの示す一切れの目安がやや小さいと感じる人は、8等分に分割する目印を目安に、一切れの重さが約56gとなる7等分に分割すればいいのだろう。

推察になるが、伝統的な味を大切に考えるとらやさんは、甘さを控えた甘味が好まれる時代の流れに配慮し、小さめな羊羹の大きさを目安にすることで、お客さまのニーズに合わせているのかもしれないと思った。 

  

 

「ボンちゃん。羊羹食べたことある?」

 

 

 

 

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2008.03.03

恋はエゴイズム

「恋。それは、わたしの自我が異性の肉体に感ずる自己主義的な索引にすぎない。いかに恋人を愛し、恋人のために尽くすことに喜びを感じるとしても、それはやはり利己心からなること。自分本位の感情に従って選び出したものだ」故事ことわざ研究会編『名言名文句事典』にあった、ロシアの劇作家・作家 アントン・P・チェーホフの言葉である。

換言すると、恋とは理性が及ばない領域にあり、相手の存在によって自分が感じる喜ばしい利己主義的な感情によって、自分が打ち負かされている状態となるのだろうか。

恋は自分の思いこみなのだと言う、アントン・P・チェーホフの言葉は妙に説得力があると思う。

自分が打ち負かされる程の喜ばしい感情を得られる喜び、それをもたらしてくれた人に出逢えたという喜び、自分よがりの感情を抱いているということ、これら全てを忘れ、自分ほどあなたを愛している人間はいないのだから、この恋が成就して当然と言わんばかりに、対象者にそれを求めるケースがあったりするが、

「求むるところなき愛、これがわれわれの魂のいちばん高い、いちばん望ましい境地である―ヘッセ『観想―魂について』」という程の心もちに至ってはじめて、「恋」という自分よがりの一方的な思い込みを、「愛」と呼べる気がする。

恋は自分の思い込みなのだと考えると、それが成就するということは、稀なものと推察が着く。相思相愛の仲というのは、幸運にも遭遇した常識では考えられないような、不思議現象と言っても過言ではないと言える。

 

 

ソクラテスの口説き文句があまりにも強烈だったから、恋や愛についてつい哲学してしまうようになってしまった。 

 

 

 

「ボンちゃん。ボンちゃんはソクラテスに負けず劣らずの、哲学者みたいに見えるよ」

 

 

 

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2008.03.02

ソクラテスの愛とは…。

人間は身体を使う=人間が身体を支配している=人間は身体ではない=人間と身体は別物

理由 身体が身体を支配することはあり得ない。

=身体を使うのは魂である。

 

これを肯定すると、下記のことが帰結される。

ソクラテスの愛とは…?

「人を愛するというのは魂を愛することである」

=身体を愛しいと思っても、その人を愛したことにはならない。

 

そこで考えてみた。

いったい魂とは、何ぞや?精神、心、思いとの違いはナンナノダロウ。それらの関係性はというと、明らかになっていない。魂は、生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると考えられている。が、実のところその所在地を知る者はいない。

肉体の消滅と同時に滅びるものなのか。それとも肉体とは別に生き続けているとしたら、肉体の寿命とは別に魂にも寿命があるのか。何も明確なことは我々には分からない。

例えば、嬉しいことや悲しいことを経験することで、魂が減ったり増えたり実はしているのかもしれない。或いは、生まれた時に魂の原石というか気質みたいな動かぬものが存在していて、経験則のようなものを得ることで変化していってるのかもしれない。

究極的に、こうも言えてしまう。誰もが霊魂や生命といった同じ構成要素からなる「魂」を持っていると考えているが、もしかしたら生命はあるけれど、霊魂を持っていない者だっているのかもしれない。誰にも何も確認できないのが魂なのである。

 「魂」が未確認な何かであり続けている限り、身体を使うのが魂である、そう信じているだけで、それを証明する根拠は示せないと思うのである。信じること、それが根拠だとソクラテスに言われたら、返答には困ってしまうが……。

 

 

「人を愛するというのは魂を愛することである」

というソクラテスの言葉を簡単に解釈すると、「なんて君は美しいんだ。その清らかな瞳の輝き。ボクは天に誓って君を生涯愛し続ける。愛しているよ。ハニー」などと言ってくる輩は、君の体に魅力を感じているだけで、君自身を愛しているわけではないということになる。更に、体ではなく、魂を愛している故、基本的には君の身体が怪我をしようが、風邪をひこうが感知しないということにもなるらしい。

この巧みな言葉の言い回しにのせられて、ついつい考え出してしまう。極端な解釈に振り回され、解釈を探し、哲学のアリ地獄に入ってしまうのだ。これがソクラテスのすごいところなのだろう。

従って、ソクラテスが挑戦的な口説き文句「私はあなたの顔も性格も嫌いですが、あなた自身を愛しています」を投げかけた理由は、人々に哲学するという波を引き起こしたかったのだろう……と思うに留め、哲学のアリ地獄から這い出ておくことにしようと思う。

 

 

「ボンちゃん。ボンちゃんは、相手の身体が目に見えない時でも、魂を感じられる?」

 

 

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2008.03.01

もしもソクラテスに…。

「私はあなたの顔も性格も嫌いですが、あなた自身を愛しています」とソクラテスに口説かれたら、

 

果たして私はどう思うだろうか……。

 

グルグルグルグル考えてしまう。

 

 

土屋賢二『双書哲学塾 もしもソクラテスに口説かれたら』2007を読んでしまったが最後、愛と自己について哲学するアリ地獄にはまってしまった。

 

 

答えは簡単には、出ないらしい……。

 

 

 

「ボンちゃん。魂を愛することが、愛するということだと思う?」

 

 

 

 

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