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2008年9月

2008.09.30

呼吸でミラクル

医学では、呼吸と心の関係が注目されている。

吹き矢が元気になる呼吸法として、読売新聞に紹介されていたが、腹式と胸式の両方の呼吸法が必要とされることから、その相乗効果で健康効果が生じるのだという。

私も呼吸法には注目していて、冷え性改善、肩こり改善、リラックス効果を期待して、意識して、腹式呼吸を実践している。

腹式で呼吸をしてみると、すぐに手先が温まるのが分かるから、呼吸の効果は絶大だと思う。

意識的に呼吸の方法を変えることで、高血圧、糖尿病、ぜんそく、脳の老化、腰痛などにも効果があるというのだから、思い当たることがあったら、試してみてはいかがだろうか。

血流がよくなれば、免疫力も高くなるし、ホメオスタシス(恒常性)への影響も大きいから、ホルモンバランスが整い、他の様々な病気の改善、予防に繋がるに違いない。

精神安定効果を促すから、欝や心身症などの改善も期待できるだろう。

赤ちゃんを授かりやすくする体づくりにも、効果があるのではないかと私は思っている。

ちょっと占いの話をからめると、四柱推命では、最も体がのんびりする時期を、女性が最も妊娠しやすい時期と判断する。

そのことから、子供を望む相談者に、体を緊張から解き放つ事が何よりも大切であるとお伝えする。

子供を授かりやすい体にするには、心身を緩め、温める必要がある。それには呼吸法は素晴らしい効果を身体に促すと思う。

是非試してみてはいかがだろうか。

呼吸の仕方は、挿絵的なものを見たほうが分かり易いので、ここでは省くが、ネットでも簡単に調べられるし、詳しい内容を記した書籍も出ている。

 

すべてのことに共通して言えることであるが、

「ミラクルは起きる」

と、心から信じてやることが、何よりも大切だということを忘れないで欲しい。

なぜならば、人間は精神的存在だからである。

 

 

「ボンちゃん。呼吸を変えると、ミラクルが起きるよね!」

 

 

 

 

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2008.09.29

勇気の印

心の成熟さと年齢は比例していないと思う。

若くても、優しくて思いやりがあって、人の心を汲める人がいるし、半世紀以上生きているというのに、無駄に歳を重ねているとしか思えないような、横柄で傲慢な行動をとる人がいる。

生き辛い世の中と言われる今日だが、未熟な人に遭遇したことで、無念さを味わい、お陰で心が成熟するという利点はある。

例えば、誰かに無理な願い事をされた時のこと。

困ったときはお互いさまと考え、相手の意向に沿った形でそれを叶えようと、気持ちよく引き受けたとする。

お願い依頼者が成熟した人間であれば、願いを叶えてくれた人に感謝し、その人の置かれている立場、気持ちを考え、熟慮さと慎重さを持って接し、せめてお願い実行中ぐらいは、心に留めておくことに精力を注ぐことだろう。

お願いをしたということは、“依頼した責任”を一切引き受けたという表明でもあり、心に留め、気遣うことが、お願い依頼者の責務だと信じたい。

しかしながら、無理なお願いをしておきながら、先に述べた責務を一切果たそうとしない、“輩”と呼ぶに値する生きものがこの世には存在する。

自分よがりな怠け心で、公然と、親切なお願いごと実行者を意に介さないという、言語道断な行いをする。

願いを快く受け、叶えようと頑張っている人は、親切心に付け込まれ気がするかもしれない。

優しさという美徳が、不徳の致すところのように思えてきて、バカバカしくなってくるやむ知れぬ。

その理不尽な扱いに、自らが軽んじられているような錯覚に陥り、悶々としてくるだろう。

人によっては人間不信に陥ってしまう。

これは、助けてもらった時は覚えているが、すぐにその恩義を忘れてしまう喩え「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という次元に至る前の、助けている最中のことなのだから、その無念さは計り知れない。

男女が愛し合うことの意「相思相愛」という四字熟語がある。

よくよく字を見ていたら、相手を思うことが、相手を愛することだという字の並びなのかと思った。

恋人や夫婦でなくとも、労わり合うことは、人間関係の基本と言える。

このように色々と考えてみたが、偏屈さがこんがらがって、凝り固まってしまったような、輩なる生きものに打つ手立は見つかりそうにないわけで、結局は野放しなままで、好き放題な行動を見ているしかないのかもしれない。

輩の行く末は、天涯孤独だと推察ができたとしても、やり切れず、割り切れない思いは味わうだろう。

不愉快に違いない。

だが、よくよく考えてみると、心を成熟させる機会をくれたのは、輩さんなのである。

実は、ひとり嫌われ者となって、人の心の成熟を助けるという、真の愛に満ちた人なのかもしれない…!?

 

生きる勇気は、他で充電した方がいいよ!

!(*__*)!勇気の印ッ!

  

 

「ボンちゃん。ゴリラ界に輩さん、いる?」

 

 

 

 

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2008.09.28

打倒、チョモランマ

何かに挑戦している時、ある局面になってくると、チョモランマのごとき高き壁が立ちはだかったように思え、その果てしなく高い壁を見上げ、途方に暮れてしまい、前進できなくなることがある。

感覚が追い求める自分という絵に、自分を近づけたいのだが、行動が追いついて行かれず、その狭間で揺れているのだ。

如何なる心理が働いて、そうなってしまうのか。

その心理が分かれば、もっと容易に前に進めるようになるのかもしれないと考え、心理学の視点から探っていたが、思うような情報は得られぬままでいた。

それが、遂に昨夜、明らかになったのである。

茂木健一郎氏の本を我が師と仰いでいる私なのだが、長年に渉って捜し求めていた情報は、まさに我が師の中、茂木健一郎『脳を活かす仕事術』PHP,2008、に記されていた。

まずは東大の方角に向かって、感謝の念を込めて一礼した。

感覚系と行動系の脳の関連性を理解したら、チョモランマが富士山ほどの高さにシュルシュルシュルシュル…、と低くなったのである。

心とは、誠に不思議なものである。

誰しも、壁にぶつかることはある。

その壁がどんなに高いものであっても、自分には乗り越えられない壁だと自分で決めつけなければ、きっと乗り越えるのだろうと思う。

 

 

「ボンちゃん。東大の方角、合ってた?!」

 

 

 

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心の傷が王さま

10代までに味わった、忘れない数々の思いが、私の心を至極複雑にしたように思う。

善きにつけ悪しきにつけ、幼い頃に深く印象づいたものに、今も、けなげなまでに縛られている。

時が過ぎても、あの頃の心を癒そうと、満たそうと、克服しようと、それを目指して今の自分が動いている。

そういうのって、厄介だ。と、思う半面、そのお陰で、昨日の自分より、今日の自分をより高めようとしているから、やる気の原動力にはなっているとは思う。

  

箭内道彦『サラリーマン合気道』幻冬舎2008、を読んでいたら、

「中学生までに体験したこと、吸収したことでその後の人生は決まってくる。その後にどんなに強烈な体験をしても十代の記憶からは逃れられない」とあった。

エッセイや対談などを通して知る限りでは、ボクシングの内藤大助氏も、ジブリ監督の宮崎駿氏も、サッカーの中村俊介氏も、幼い頃に抱えた強い悲しみや、悔しさ、寂しさという心の傷を克服しようとして今を夢中に生きているように思う。

オリンピックを目指すアスリート選手も、野球少年で大リーグ入りを目指す人も、幼い頃に強く興味を持ったものに捕らわれて生きているという意味では同じだろう。

メジャーリーグで数々の記録を樹立し、今や伝説の人となっているイチロー氏も同じということになる。

心の傷が王さまで、それに支配されている人がいる。

幼い頃の夢を果たそうとする人がいる。

両者とも、今を夢中で生きようとすることは同じなのだろう。

冒頭で記した通り、私は幼い頃に受けた、悲しい部類に入る思いと心のどこかで闘っている。

あの頃の自分を克服したいと、あがき続けて今を築いている。

心の底では、そういうのって、嫌だと思ったりもしている。

でも、結局は克服しようと、価値があると信じるものに向かって情熱を燃やすことでしか、逃れらない。

それも分かっている。

それでも、時に、今さら言っても仕方がないことを思ったりする。

あの頃、夢に向かって突っ走る選択肢を、なぜ私はとる事ができなかったのだろうか、と。

その理由も分かっている。

多感な時期に、あまりにも心が混乱し、感情が揺れ過ぎてしまったことで、心が複雑化し、将来の夢を考えるというシンプルな事ができなくなってしまっていたのだ。

将来の絵に向かってまっすぐに生きることと比べたら、

遠回りのような気もするけれど、

こういう突っ走り方でも帳尻は合わせられるのだ。

と、気づいたのは、近年になってからかもしれないl。

心の傷が王さまだなんて……、

心情的には、絵にならない気がする。

∈(・_________・)∋イャァ なのだけれど……、

それが、心に棲む、私を前向きにさせる、王さまなのかな。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラも、心の傷が王様となって、自分を支配していない?」

 

 

 

 

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2008.09.26

堂に入った、恋

寅さんのマドンナ達は、皆一様に寅さんを心から信頼しているように見える。

幼なじみを懐かしむかのように接する。

出会ったばかりの人だというのに、なぜ、瞬く間に「寅さ~ん」と呼び出すのだろう…?

昨夜、久々に「男はつらいよ」がTVでやっていたが、

この夏、映画館で6本、寅さん映画を観た。

 

長い歳月が経ってから、

映画館という同じ場所で、

幼い頃に見た映画を再び観たことで、

物語を楽しみつつ、

様々な視点から物を考えた。

当時から今に至る俳優さんたちの活躍に思いを馳せ、

それに比べて自分はどうかと、

今までの人生を俯瞰し、

今を見つめ、

これからの自分を考える機会となった。

 

それはそれは実りある時間となったので、

もし機会があったら、

再度古い映画を映画観で観ることをお薦めしたい。

 

寅さん漬けの締めくくりとして、

マドンナたちの思いを一考してみたいと思う。

では、一考に、行っこう!(*`▽´*)ウヒョヒョ。

 

寅さんは、

思いを寄せるマドンナに恋はするが、

嫉妬に狂うことは決してない。

 

嫉妬というものを突き詰めて考えてみると、こんな感じだろうか。

〈嫉妬のうちには、愛よりも自愛のほうが多くひそんでいる〉‐政治家・箴言作家 フランソワ・D・d・ラ・ロシェフーコー‐。

〈嫉妬とは愛の保障への要求である〉‐トルストイ‐

嫉妬が招いた悲劇では、

ヴェルディオペラの代表作の一つ「オテロ」がある。

総大将である英雄、オテロが、

悪い部下の作り話を信じ込んでしまい、

嫉妬心から妻をあやめてしまうという話。

 

愛情が深ければ深いほど嫉妬も深いと聞くが、

自愛よりも、相手を思う思いが上回っていれば、

その愛情はきっと自らの嫉妬心を焼き払うだろう、と私は思う。

 

従って、嫉妬に狂うというのは、

詰るところ、相手を愛する気持ちより、

自愛が勝っているということなのだろう。

 

 

寅さんが、マドンナに対し、

真の愛情を持っているかどうかまでは分からないが、

自愛を凌駕するほどマドンナを大切に思い、

恋をしていることだけは確かなことだと思う。

 

そんなふうに、

堂に入った恋を貫ける人は少ないように思う。

さくらさんを思うひろしさんも、その数少ない1人だろう。

考えてみれば、

寅さんを取り巻く人達は、みんな心の優しい不器用な人たちである。

自分が好きだと思った人を、

心から大切にしたいと思う寅さん。

その気持ちを汲めるおいちゃん達。

みんな今では絶滅の危機に瀕した希少価値の高い人間なのかもしれない。

そんな寅さんの心の温もりに癒され、

胸が熱くなり、

嬉しさのあまり、マドンナたちは「寅さ~ん」と、

愛しい者を懐かしむように呼ぶようになるのではないだろうか。

 

 

哲学的な寅さん語録を思い出した。

「レントゲンだってね、ニッコリ笑って写した方がいいの。 だって明るく撮れるもの」

嫉妬を寅さん流に言うならば、

「やきもちだってね、こんがりやく方がいいの。だって美味しく食べられるもの」

というところだろうか…。

「どうせするなら、堂に入った恋、堂に入った愛のが、いいよ」と、寅さんに教えてもらったような、2008年の夏だった。

 

 

 

「ボンちゃん。恋するって、いいね」

 

 

 

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2008.09.25

現実と仮想

遂にハリーポッターを全巻読み終えた。

自称ポッタリアンの私だが、3巻までは魔法にかかっていて、4巻で魔法から覚め、最終巻ではそのどちらでもなくなり、敬意の念を抱きつつ、ページをめくっていた。

J・K・ローリング氏の創り上げた仮想世界に棲むハリーポッターは、将来、サンタクロースに比肩する偉大なる人物になるのではないだろうか。

考えてみれば、私たちは多くの仮想な世界に癒やされている。

茂木健一郎氏曰く、「私たちは生きている限り、一リットルの脳内現象の中に囚われている。有限の現実性と、無限の仮想世界の両者を生きることが人間の運命なのだとすれば、私たちは、そのダブルバインドな状況からくみ上げることのできる喜びを感謝を込めて味わうべきなのだろう」(茂木健一郎『脳と仮想』新潮社、2006より)

因果的現実の世界がツライ時こそ、無限に広がる仮想世界で羽を伸ばそう。

落語を聞いたり、映画を見たり、小説を読んだり、仮想世界で人生を謳歌することは制限なく誰にでも出来るのである。

秋の夜は長い。

いつもよりもっと、心が遠出できるよ。

 

「ボンちゃん。自らの感性が基盤である想像力と、喜びを感じる力は、比例しているということだね」

 

 

 

 

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2008.09.24

ストレスは消えるゾ!

ストレスは個々のパーソナリティが大きく影響すると言われている。

ストレスフルな同じ状況に置かれても、その状況における感じ方は異なる。ある人にとってストレスを感じることでも、ある人にとってはストレスを感じないということが生じる。

このようにパーソナリティが大きく影響するストレスだが、

ストレスは、情動的レベル(いらだち・悲しみ、怒りなど)、生理的レベル(胃潰瘍、高血圧など)、行動レベル(生産性低下、集中力減退などの)、認知的レベル(絶望感、無力感など)が相互に関連しているとされる。

たとえば、情動的レベルとして、クヨクヨしても仕方がないことに、ずっと思い悩んでいけば、ストレス度はどんどん増していき、生理的レベルとして病に倒れることに繋がる。

情動的レベルとして、苛立つことに対し毎回イライライライラしていれば、

生理的レベルとして、血圧は上がり胃潰瘍になったりもする。

その結果、行動レベルとして、集中力が減退し、生産性は低下する。

遂には、認知的レベルとして、無力感や絶望感が襲ってくるようになってしまう。

自分の考え方、解釈の仕方によって、ストレスは大きくも小さくもなるものである。

従って、自分の考え方の癖、行動パターンを見直すことにより、ストレスフルな状況においても、ストレスは軽減する。

 

「あーあ、またこの仕事やるのか・・・」

を、

「仕事があること自体、幸せだよな。考えてみれば、知らない世界を知ったし…、夢中でやってると、けっこう面白い気もする。どうせやるんだから、嫌々やるのではなく、今を楽しむとするか…」

と、

考え方を切り替えるだけで、ストレス度は変わるのである。

出来事に対する解釈を、見直してごらんよ!

きっと、ストレスは今よりも減るはず。

 

 

「ボンちゃん。心の癖を修正するのは簡単じゃないけれど、心がけていれば新たなる習慣が身に付くようになるよね」

 

 

 

 

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2008.09.23

あの眼差し

Ludovico Einaudi (ルドヴィコ・エイナウディ ) のインタビュー(「テレビでイタリア語」火曜日0:00~0:25放映)を見ていたら、20年前に見た、ある眼差しを思い出した。

ルドヴィコ・エイナウディのピアノ作品は、映画音楽で多くを知られており、ヨーロッパで絶大な人気を集めている。

心象描写をピアノの旋律で表現しているような印象を受ける。

そのインタビューの途中途中で、いくつかの曲を弾いてくれたのだが、涙を誘うように考え抜かれた作品でもなく、クラッシックとも異なる。

寄せては帰る波音を聴いている感覚に陥ったから、無理に主張しないことが自ずと主張となっているような、自然界の流れを思い出させる魅力がそこにあるのだろうと思う。

インタビューの最後に、押しの強いインタビュアーが、自分との出会いを音楽にして欲しい、とリクエストをしたのだが、彼は嫌な顔ひとつせずというか、少し恥ずかしそうな笑顔を見せた後に、ピアノを弾き出した。

その曲は彼女が放つ雰囲気そのものだった。

はっきりとした印象の中に、どこか恥じらいや戸惑いがある感じ。

勝気そうな女性が、一瞬に恋に落ちた心情、それをピアノの旋律で表現したような印象を受けた。

自分に一瞬にして恋に落ちた女性の心情を表現しなければならないから、彼はちょっと照れくさかったのかもしれない。推測ではあるが。

彼のずば抜けて優れた感性、察知力、表現力の鋭さに、心情描写をピアノの旋律で描き出す、まさに天才だと思った。

ピアノ作品はさることながら、印象的だったのは、その愛情深い眼差しである。

多くの人は、愛する人に自然に愛情深い眼差しを向ける。

普通に出会う人々にも、それに似た眼差しを向ける人は極少ない。

彼はその少数派だと思う。

ルドヴィコ・エイナウディは、眼差しにおいても天才なのだろう。

 

「ボンちゃん。誰かの眼差しに、他の誰かの眼差しを見ること、あるよね」

 

 

 

 

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2008.09.22

不思議な力

「スポーツの感動は計算されて作られたものじゃないから、心の奥底に響く不思議な力がある」

初めてオリンピックに現地入りして観戦を果たしたという、プロゴルファー、青木功氏の記事の言葉である。

メダル獲得という華華しいことよりも、競技に必死になっている選手たちと、人種の壁を越えて応援している人々、その姿を見て熱いものが込上げてきたという青木氏。

誰かが一所懸命に取り組む姿を見て、人は感動すると改めて気づいた。それがスポーツの真髄。ゴルファーとして、人に感動を与えられるプレーを目指したい。そう結んでいた。 

 

日常の生活に置き換えて考えてみたい。

話していてココロ此処にアラズという人がたまにいる。

やや大げさな言い方ではあるが、誰しもが、一秒一秒死に向かっていることから考えると、そういう人は、今という瞬間を一緒に分かち合ってくれている人に、全く敬意を表していないことになる。

二度と繰り返すことのできない貴重な時間を共有しているというのに、ココロ此処にアラズとは何事か!と密かに思ったりしているのは私だけだろうか…。

その逆に、「あの人に会うと、不思議な力をもらう」という人がいる。

そういう人は、過ぎゆく一瞬一瞬を、情熱的に過ごそうと、努力している人。

言い換えれば、限りある生を最大限に楽しもうとしている人だろう。

 

「ボンちゃん、情熱と、たゆまぬ努力が実を結び出すと、誰かの心の奥底に、不思議な力が届き出すのだろうね」

 

 

 

 

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2008.09.21

狛犬と金魚すくい

根津神社のお祭りに行った。

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きりっとした顔の狛犬さまは、社殿を訪れるひとりひとりに向かって、

「しっかり、生きろよ!」

と、声をかけているように見えた。

 

帰りに金魚すくいをしたのだが、30匹すくっても紙は破れなかった。

私が名人級に金魚すくいが上手いというわけではない。

ただ単に、やけに丈夫な半紙が貼られてあるだけなのだ。

小学生の頃、針金をまるくして、破れないように丈夫な半紙を貼って、ひとりで金魚すくいをしたことがある。それを思い出した。

その時、私は学んだのである。

金魚すくいは、「あー、破れちゃうよぉ」とか「あーぁ、オワチャッタ…」とか言いながら、無念さを感じることに面白しさも意味もあるのであり、それ無しに金魚ちゃんをすくった瞬間の感動も無いのだ」、と。

金魚ちゃんたちは命を賭して、教えてくれている…。

〈愚かな人間たちよ。覚えておけっ!簡単に望みが叶うと思うなよ。努力せずに成し得ることなど何もないんだ〉

そう呟き、涼やかに泳ぎ去る。

それが昔の金魚すくいだった。

現代のニーズに合わせて、なかなか破れないようにした金魚すくいでは、金魚ちゃんたちの声無き声が人間に届くことはないだろう。

その結果、命を賭している、人間にすくわれた金魚ちゃんは救われないし、金魚ちゃんをすくった人間も救われないのである。

こうなったらヤケノヤンパチだ。何匹の金魚ちゃんをいっぺんにのせられるかやってみよう、と、太った5匹の金魚ちゃんを一気にのせた時、遂に半紙は破れた。

こうして、愚かなる人間は、すくいようのない程、愚かになってしまうのである。

金魚ちゃん。ゴメン。もう2度としないよ。

ああ、金魚ちゃん。ゴメン…。

 

「ボンちゃん。花も枯れるからいい、って言うよね。ねーねー、ボンちゃんからも、反省してる様子だと、金魚ちゃんに伝えてくれない?」

 

 

 

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2008.09.20

“病は、気から”

誰もが「病気にはなりたくない」と思うものである。

パーソナリティーと健康の関連性について、興味深いことが人格心理学の研究知見から明らかになっている。

例えば、冠状動脈性心臓疾患を起こす人の特徴を例に挙げてみてみよう。

心理学において、タイプA、といわれる人がいる。

タイプAとは:

競争心・達成欲が非常に高く、やる気に満ちた人である。

目標を設定し、精力的な活動をする。

生産性にこだわるため、常に時間的切迫感を持っていて、目標を果たすことと勝ちたいという思いに縛られている。

他者に対しても自分自身に対してもイライラしがちである。

言動は、攻撃的・挑戦的。

会話の特徴は、はっきりとした口調で断定的な物言いをし、早口である。

これらの特徴を持つ、タイプAと言われる人が、冠状動脈性心臓疾患を煩う率が最も高いことが明らかになっている。

自らの行動パターンが、自分自身に過大なるストレスを負荷させていることが病気因子となっているのである。

この負の連鎖を改めるには、自分の行動パターンの見直しを図ることが必須といえよう。

 

まさに“病は、気から”

昔から伝わるこの言葉は、心理学的にも裏づけられているのである。

 

「ボンちゃん。健康維持には、自分の性格・行動パターンを自覚することが不可欠だね〉

 

 

 

 

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2008.09.19

ブタ受難の年

そのブタは、ピンクと名づけられ、人間同様に育てられていた。

6年前になるだろうか、近所のおじさんがペットショップでミニブタを買ってきた。

奥様を病気で亡くされてから、塞ぎ込みがちだったおじさんに笑顔が戻ってきたのはその頃からである。

おじさんは目じりをさげて話していた。

「カワイイーヨ。ピンクは眠くなると押入れの前で、ブー、布団敷けブッー、って催促するんだよ。寝る時も一緒、風呂に入るのも一緒。もう夫婦みたいだ」と。

何をするのにもやる気が湧かない、と言っていたおじさんを元気にしたのは、少なからずピンクの存在によるところが大きい。と、私は陰乍らに思っている。

ミニブタのはずのピンクだったが、遺伝子異常なのか、ペットショップが大きくならないと嘘をついて売ってしまったのか、真相は分からないが、今では見事な大きな豚に育った。

最近、どうしたことか、朝見ても夜見ても、庭の片隅にピンクがいるから気になっていた。間に合わせで作ったような、ブルーシートの下で常時過ごしているのである。

番犬ならぬ、まるまると太った番豚という感じだが、いつみても寝ているから、番にはまったくなっていない。

ピンクは、生まれてこの方、冷暖房完備の家の中しか知らない。外に出るのは、おじさんとのお散歩の時だけだった。

外での暮らしは、勘当も同然に思えるかもしれない。

その哀しみにたった一人、いや、たったひとブタで耐え、自分の心と現実との折り合いをなんとかつけようと、ひたすら眠っているようにも見える。

或いは、不貞寝なのだろうか・・・、と、私は考えを巡らせていた。

 

ある日のこと。

女の人がピンクの家から出てきた。その時、終に事情が判明したのだった。 

おじさんは再婚し、女の人が連れ子ならぬ連れ犬3匹と共に引っ越してきたため、ピンクは庭に追い出されてしまったのである。

 

今日は雨が降っている。

ピンクは、ブルーシートに落ちる雨音を聞きながら、何を思うのだろうか…。

 

「ボンちゃん。ピンクに、なんて声をかけたらいいと思ふ?」

 

 

 

 

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2008.09.18

究極のダブルオカリナ

オカリナをやり出して、次のことが分かってきた。

オカリナにも、音痴が存在するということ。

自分が追い求める音色を出すには、曲によって、様々なタイプのオカリナを使い分ける必要があること。

オカリナという楽器は、音域、音色、操作性が個々で異なること。

値段は、980円~ 147,000円(イタリアの土で日本で製作し、イタリアのファエンツァで絵付けと焼きを行ったもの)まで色々ある。

音色が素晴らしいと勧められて購入したものでも、同じように素晴らしい音色が出るとは限らないと言われている。

なぜかと言うと、息の吹き込み方というのは人それぞれに癖があり、息の量や吹き込む角度が変わり、オカリナとの相性が左右するからだという。

従って、色々なオカリナを購入、或いは自らで作って吹いてみるしかないということになる。

ネットで調べていたら、オカリナを120個持っている人がいたが、追い求める音楽にこだわる人は、必然的にそうなってしまうに違いない。

掛け替えのない相棒を見つけることへの限りない挑戦といったところだろうか。

私にも気になっている相棒の候補がいる。

その名は、究極のダブルオカリナ「Osawa-Noble」

いま持っている1オクターブ用のアケタオカリナとは異なり、ダブルオカリナは、2オクターブ以上の音が出せる構造になっているため、音域が足りなかった曲が演奏できるようになるのだ。

ダブルオカリナ「Osawa-Noble」は、複数管オカリナ奏者の第一人者、大沢聡氏が徹底的に調律にこだわった究極の一品である。

 

相棒候補、68,250円か…。

 

 

「ボンちゃん。ダブルオカリナ「Osawa-Noble」が欲しいです。って、サンタさんに会ったら頼んでくれる!?」 

 

 

 

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2008.09.17

もじもじ

「物を書く」ことは、覚悟がいる。

なぜならば、他人にこれほど自分をさらけ出すことはないからである。

けさ手にした本、ビートたけし「ビートたけし詩集 僕は馬鹿になった」祥伝社,2000、を読んでいたら改めてそう思った。

北野武さんという人は、不器用魂の究極を見極めようとしている人のように思える。

エッセイ・詩は勿論のこと、小説や、ブログなども含めて、多くの場合、それらには書いた人の死生観が顕著に表れている。

意識せずとも、自分の心がさらけ出されてしまうのだから、覚悟無しにはできない。

ちょっと話が逸れるが、書いていて気づいた。

「文字」と「文学」って、字が似ている。

 

私は二つの理由があって、玉ログを書き始めた。

何か決断する時は、自分が認めた人間の言葉を参考にしたいと私は考える。

私は占い師という仕事をしているから、決断に迷った人に、必然的に少なからず助言的なことを言うことが多い。

従って、私がどんな価値観を持った人間かを見極められるようにすることが、筋が通ったことだと考えたからである。

もうひとつは、私が知り得たこと、感動したことなどを伝える事で、今、ひとりで泣いている誰かの涙を止めたり、暗中模索中の人が、暗中飛躍に変わるきっかけとなるかもしれない、と思ったからである。

 

「ボンちゃん。玉ログは、文字化された私の心なのだね。もじもじ」

 

 

 

 

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2008.09.16

辞書からの“Baci”

この間は、イタリア語の古いノートからBaciチョコのメッセージが出てきた。

今度は、イタリア語辞書から出てきた。

それは、ショパンとの恋で知られる、フランスの女流作家、ジョルジュ・サンド(George Sand) の言葉だった。

Esiste nella vita una sola felicita': amare ed essere amati.

=There is only one happiness in life: to love and be loved.

 

甘く、哲学的な言葉から推察し、彼女は心からショパン(Chopin)を愛し、ショパンからも心から愛されていたのだろう。

深く愛し、深く愛される。

相思相愛とは、幸運な巡り合わせの助け無しには生じない、奇跡的な現象だと私は思っている。

なんと幸運なふたり。

私も幸運さ。

だって、イタリア語辞書からBaci(キス)を思わせる言葉を貰った。

それが、昔、自分が挟んだ紙切れだとしても、なぜか今の私はそれを辞書からの告白と考えるのだった。

イタリア語君と私は相思相愛。 

ロミオなイタリア語くん

「ボクはどんな時も、キミと共にいる。辛い時は、ボクを見るんだ。ボクは全ページをもってして、キミを救うだろう。ボクは永久にキミといる。それを忘れないでほしい」

ジュリエットな私

「おおイタリア語、あなたはどうしてイタリア語なの?」

 

ということで、今夜はこの辺で御開きに。

 

「ボンちゃん。おやすみ」

 

 

 

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2008.09.15

強いに王道は無し

「うまいが必ずしも魅力に繋がらない時代。うまいは強いにかわない」

立川談春さんと阿川佐和子さんの対談記事を読んでいて、目に留まった言葉である。

そこで「うまい」と「強い」について改めて考えてみることにした。

恒例によって、まずは辞書を調べてみる。

「うまい」とは、

1、技術的にすぐれている。また、事の進め方などが巧みである。じょうずだ。巧妙だ。手際がよい。

「強い」とは、

1、力や技がすぐれていて他に負けない。

2、心身が丈夫である。

3、物事に屈しない精神力がある。少しのことでは参らない。ひるまない。

4、環境や条件に屈しない。物事に耐える力がある。

5、断固としている。きびしい。

6、はっきりしている。明確である。

等など。(参考:大辞泉、小学館)

 

確かに、芸術をみても、心に響くのは、技術的に優れている部分ではない。

そこに創造者の精神力、感情の流れを感じるからこそ感動するのだろう。

なるほど、確かにうまいは強いにかわない。

強い人というのは、目指す自分に向かって、飽く無き挑戦をし続ける人なのだろう。

 

「ボンちゃん。学問に王道は無し、っていうけど、強いに王道は無いね」

 

 

 

 

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2008.09.14

邪気

新居に越した知人の家を訪れようと、とある建物を訪れた時のことである。

一階の踊り場に足を踏み入れた瞬間、物凄い数の見えない何かに、いっせいに見られた気がし、ゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッッ、と全身に鳥肌が立った。肌に吸い付く様に囲まれた気がした。

薄気味悪いなどという、そんなカワイイ感覚ではない。生命の危機を感じた。一刻も早く用事を済ませ、ここから離れなければと思った。

古い建物で、なかなかエレベーターが来ない。待つ間、気が急いて足踏みしていたのか、なぜそうしていたかは分からないが、体を止めてはいけないと思った。邪気を振り払うように手足を動かしていた。

一緒にいた友人の男性はというと、私の言葉につられてか、確かに気持ちがいい感じはしないと言った。

そこには、居住者と思われる子供が出入りしていて、踊り場で遊んでいたのだが、ここに居て果たしてとり憑かれないものか、と少なからず心配になった。

エレベーターに乗ると、ゾゾゾッの数は減った。が、何かにじっと見られている感覚は変わらなかった。

上階にエレベーターが止まり、降りた瞬間、再びゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッッ、に襲われた。

建物の構造は、中央が吹き抜けになっていて、それを四角く取り囲むように廊下が繋がっていた。

廊下から吹き抜けを見下ろすと、各階に緑色の真新しい、太くていかにも頑丈そうなロープ(落下防止ネット)が張られてあるのが目に飛び込んできた。

その光景の不自然さと雰囲気の異様さが、全てを語っていた。

走って友人宅に行き、開いたドアをバタンッと閉めた時、ゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッッがピタッと消えたのである。

それがなんとも不思議だった。

部屋は南向きで明るく、穏やかな気が満ちていて、扉の向こうにある廊下とは無縁な空間が広がっていた。

何はともあれ長居はしたくないと、すばやく用事を済ませ、帰ろうとした時、廊下に面したお風呂場に目が行った。

見れば、やはり廊下に似たおどろおどろしい気配があった。

覚悟を決め、ガチャッと玄関の扉を開けた瞬間、またゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッッに襲われた。

あとは無我夢中で走り、建物から飛び出た。

するとまたピタッと、ゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッッが消えたのである。

 

その時思った。

あの建物の踊り場や廊下に、物の怪のような何かが集まって来ているのだと。

 

後から知ったことだが、そこは飛び降りが後を立たないことで広く知られている建物なのだった。

邪気に遭遇してしまったら、毅然とし、強気な姿勢で、徹底的に無視するしかないと思う。

 

「ボンちゃん。物の怪から守ってね」

 

 

 

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2008.09.13

好きな場所がある。

イタリアのVeneziaは海の中に建つ街である。

アドリア海に漂う不可思議な、怪しい“気”が満ちた所に、美意識の高い建物群が建っている。

そこは現実の世界とは異なる、幻の世界というか、目に見えない世界を感じさせる“気”が満ちている。

その気配と、見える世界との調和の絶妙さによって、神秘的な世界が創り出され、絵になっているから惹かれているのだろうと思う。

『千と千尋の神隠し』で言ったら、トンネルの向こうにある、神々が湯屋に来る世界といった感じだろうか。

Veneziaで得た感覚と、どこか何かが似ていると感じた場所が日本にある。

別々の機会に何気なく訪れた場所なのだが、厳島神社で知られる安芸の宮島。近江、琵琶湖の竹生島。江の島である。

後になって三者に共通点があることに気づいた。

それは、「神の島」と言われていること。

海の神の三女神を祀っていること。

日本三大弁財天であることだった。

 

“気”に関して言えば、琵琶湖の竹生島は、そのただならぬ強い“気”に、ゾクゾクッと鳥肌が立ったのを覚えている。

その時、この島には、見えないが何かが出入りしているというか、棲んでいるような気がした。

同時に、人間が安易な気持ちで立ち入ってはいけない所だと感じた。そんな荘厳な気配を感じたのは、後にも先にもただ一度きりである。

見えない世界の在るか無きかは、物議が別れるところだが、経験かから考えて、“気”(“霊”と“気”の明確な区別というのは分からない)というものは存在しているように思う。ここでは“気”としておこう。

と、ここまで書いていたら、怖い“気”に遭遇したことを思い出してしまった。

長くなるので、その話は明日ということに。

では、よき土曜日を。

Ciao!

 

「ボンちゃん。目に見えない世界を感じることって、あるよね」

 

 

 

 

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2008.09.12

ゴリラは筋金入り。

「自分のためにする会話はコミュニケーションではない。すべてのコミュニケーションというのは、相手のためにしか存在しないということを憲法第一条としてきめなければいけない」(西山登志雄『いま、動物園がおもしろい』コスモの本,1991)

カバ園長として知られた、故、西山登志雄さんの記した本を読むと、動物を理解しようとして、試行錯誤した筋金入りの人物だと感じる。

明治の人は今の人と違う、と言われるのと同じように、西山さんのように、物事を探求し、追及していく人は、経験に基づく人生観や世界観を見出しているから、言うことが真に心に届く。

そういう筋金入りの人物が昔の日本にはイッパイいたのだから、やはり「昔は良かった」に、違いないのである。

 

西山さんは、ゴリラとのコミュニケーションについて次のように記している。

「私がゴリラから学んだことというのはまず、相手を理解しなければならないということ。物言えぬゴリラと話をするということは、具体的には、こちらの心を相手に伝えること以外にない。心を相手に伝えようとする。そこが基本で、押し付けではない。まして命令でもない。ゴリラに命令しても絶対に効き目はない。そうすると、向こうが受けようとしているもの、受けることができるもののみにおいて会話が成立する」

 

人間同士の会話をみても、あの人と話をすると気分が害されるから、極力接する機会を減らしたい。そんなふうに思う要注意人物が、誰しも周りにひとりやふたりはいるものではないだろうか。

それは恐らく、こちらの立場や感情をいっさい無視して、一方的に話しかけてくるから嫌なのだろう。

その最たる人物は、自分よがりな話だけを進めても、会話は成立するものだと思っている節があるから手に負えない。

コミュニケーションとは、相手を理解しようとする気持ちの上に、本当の意味で成立するものなのだ。

そうした心構えをもってして、向こうが受けようとしているもの、受けることができるもののみにおいて、成立する。

これがコミュニケーションの真髄なのだと改めて思った次第である。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラはみんな、自分の御眼鏡に適った者しか認めないから、筋金入りだね」

 

 

 

 

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2008.09.11

哀しいカレー

どうして、こういう世の中になったのかねえ…。

と、知り合いのお爺さんがぼやいていた。

お爺さんの片目は緑内障でほとんど見えない。食道癌と胃がんを患ってからは食も細くなり、一人前の三分の一程しか食べられず、65kgあった体重が47kgになってしまった。

昔と変わらないことは、ジャケットを着て帽子を被って散歩に出かけ、レストランに入り雰囲気を楽しむことである。

その日も、杖を手に散歩に出かけ、一流と言われるレストランで、カレーを注文した。

お爺さん:カレーライスをお願いしたいのですが、今日はパンを食べたいので、ゴハンをパンに替えて下さい。

レストラン:お客様、カレーライスは、カレーとライスなんです。

お爺さん:それは存じておりますよ。ここをしばしば利用していますからね。ここのお店は、カレーとゴハンが別々に出てきますね。今日はゴハンをパンに替えてもらいたいのですが。

レストラン:お客さま。当店ではカレーライスはカレーにライスとなっております。

お爺さん:それは私にも分かりますよ。そのライスをパンに替えて頂きたいとお願いしているんですよ。

レストラン:お客様、カレーライスを注文される場合は、カレーとライスが付くものなのです。

お爺さん:・・・・・・。

レストラン:お客様、当店ではカレーにはライスが付くと決まっております。従って、カレーライスにパンを単品注文ということで宜しいですか?

店員さんは、全く話の分からない爺さんにひっかかってしまったという顔をしていたという。

結局、支配人が対応し、カレーとパンが出てきたというが、気分を害した後に、食事が美味しいはずも、楽しいはずも無い。

どうやら、注文を入力する端末に、カレーライスのライス無し、パンを単品オーダーする、という操作がないのが注文を拒んだ理由らしいのである。

レシートを見せて貰うと、お土産用カレー1、パン1、コーヒー1と記載されていた。

カレーとパンの値段はカレーライスと同じ価格だったが、カレーライスにはコーヒーは付くが、お爺さんの注文は単品注文のため、コーヒーは別注文になるのだった。 

うるおいもあたたかみも感じ無い対応を受けるのは懲り懲りだよ。本当に時代は変わったね。長生きなんかするもんじゃないよ。

と、お爺さんは哀しげに言った。

 

 

「ボンちゃん。人間界は、時代と共にどんどん殺伐としてきているの」

 

 

 

 

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2008.09.10

金輪際、許さない

継続は力なり、とよく言われるが、

何事も継続するのは決して容易ではない。

継続する、というのは、

自分に勝つことなのだろう。

 

自らのイタリア語学習の歴史を振り返ってみた。

1997年~2002年までは本当に一所懸命に学んでいた。

その後、ピタッと止まった。

この5年と8ヶ月のブランクは大きい。

そのお陰で記憶した多くのことが風化してしまった。

致し方ないのう。自分はまだまだまだまだ未熟者。今回だけは許してあげよう、と思った。

だが、再び同じこと、すなわち、せっかく覚えたものを自らで風化させるようなことをしたら、金輪際、許さないよ、覚えておきなさいっ!、と、今朝、自分に通告した。

 

今日は愛しの祖母の命日。

祖母がこの誓いの証人となっている。

 

「ボンちゃん。今回は、自分に負けないから」

 

 

 

 

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2008.09.09

ゴリラを、連れてくぜ!

何かをはじめると、今まで知らなかった世界を知る。

究めようとすると、見えてくるものがあるから、学ぶとは面白い。

 

ある人のオカリナの音色を耳にしたのが、今年の4月。

その音色を聴いた時、身も心も、青空広がる海に放たれたような気がした。

その不思議な開放感は、まるで怪奇現象が起きたような、そんな衝撃的なものだった。

その時、同時に思ったことがある。

私の心が一瞬で解き放たれたように、

動物園にいるゴリラも、

音色を聴き、

森に放たれたような開放感を得るのかもしれない、と。

 

それがきっかけとなり、オカリナの独学を始めた。

今日から、「人生のメリーゴーランド」(作曲:久石譲)を練習している。

この曲には、海と石畳がよく似合う気がする。

ヴェネツィアだ。

 

ゴリラを、森に連れて行くぜ!

 

 

「ボンちゃん。涙する音色、もうチョピットだけ、待っててね」

 

 

 

 

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2008.09.08

Baci

イタリアに Baci という名のチョコレートがある。

日本でも販売されているので知っている人も多いと思うが、銀紙に包まれた丸いコロッとしたチョコレートである。

“Baci” とはイタリア語で、“キス”の意。

味は日本のチョコレートにちかく、ゴディバと比べたらずっとサッパリとした甘さをしている。チョコも美味しいが、その中に入っているメッセージの紙切れが私の目当てで、イタリアに行く度に買っていた。

というのも、日本で買うBaciチョコには、なぜかメッセージが入っていないのである。最近のことは分からないが。

 

なぜBaciのことを思い出したかというと、今日から本格的にイタリア語の勉強を再開しようと思い、古いノートを引っ張り出したら、Baciの紙切れが挟まっていたのである。

その紙切れには、次のようなメッセージが記されていた。

 

E' bello entrare nel fuoco dell'amore.

=It is beautiful to go through the fire of love.

 

“Baci” を思い出す、

色っぽいメッセージが多いのかもしれない。

 

「ボンちゃん ゴリラは、Baciする?」

 

 

 

 

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2008.09.07

昨夜、私の心根に届いた言葉を紹介したい。

「道はいつも自分の目の前に広がっている」(海堂尊『医学のたまご』理論社2008より)

 

「ボンちゃん。どんな時も道連れなのは、自分なんだよね」

 

 

 

 

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2008.09.06

肝臓様も大喜び?!

昨日取り上げた肝臓の話にちなみ、イライラ解消法を探してみたので紹介しよう。

 

クゥー(-”-;)イライラしてきた。

ベラベラベラベラ要らんことをしゃべりやがって…。

└(`□´)┘おのれー!

 

てなんてことにならないよう、この解消法で「怒」を沈め、肝臓様に平安な日々を送らせてあげて欲しい。

解消法 

①胸を張って、さっさと汗ばむほど歩く。

②手をグーにして、ギュッと握り、緩め、を繰り返す。

③腹筋に力を入れ、足の指を強くグイグイ動かす。

④一心不乱になって掃除をする。

⑤気持ちがいい程度に、軽く頭をトントンする。15センチの棒の片方に、球(綿を芯にして作る)をつけたものを使うと良い。(参考:『疲れをとる裏ワザBOOK』河出書房新社2005)

これらを実践すると、不思議と気分が静まり、気持ちが落ち着いてくるのだという。

 

 

「ボンちゃん。感情を上手くコントロールできるようになると、病気にもなりにくい身体になるのかもね」

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2008.09.05

「怒」の感情

中国の医学では、「怒」の感情は肝臓と密接な関係があるとする。

「怒」が強まってくると、強い緊張と興奮を伴ってきて、その度合に応じて攻撃的になる。

既に肝臓を煩っている場合は、自分の肝臓を気遣う上でも、気分に任せてイライラしたり、怒ったりしてはいけない。

例えば、レストランで注文したお酒の到着が遅くても、

「べらぼうめー!酒がおっせえーじゃねいかっ!」

などと、言っては御身に宜しくない。

肝臓は、摂取した食物の代謝作用を行う内臓の中で、一番安静を必要とする臓器なのだそうだ。

従って、「怒」の感情が持続していると、肝臓は緊張しきり、疲れきってしまうのである。

 

もし、最近、自分がかんしゃく持ちになってきたように感じる。

或いは、気分にムらが出てきた。直ぐにイライラする。

そう感じる人は、一度肝臓を診てもらうのが良いと思う。

声無き臓器と言われている肝臓だが、不調を訴えているサインは出しているのかもしれない。

 

「ボンちゃん。ゴリラにもかんしゃく持ちって、いる?」

 

 

 

 

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2008.09.04

生簀の鯛に恋焦がれ

柳家はん治さんの落語を初めて聞いたのが、6月。

演目は、桂三枝さんの創作落語『生簀の鯛』だった。

その日を境に、私が一番好きな落語は、はん治さんの『生簀の鯛』となった。

『生簀の鯛』とは、知恵を絞り、網で掬われるのを長年に渡ってまぬがれてきた生簀界の重鎮ともいう鯛が、新しく生簀入りした魚に、活きづくりにされないための日ごろの心構えを教える、というような話である。

桂三枝さんの創り出した世界に感じ入りしつつ、話し振りと少ししゃがれた声に惹き込まれ、はん治さんが鯛が見えた。

 

あれから2ヶ月が経ち、やっと、はん治さんが浅草演芸ホールの高座に上がる日がやってきた。

寄席というのは、その日のお客さまの雰囲気で演目を決めるらしく、偶然が助けなければ、恋焦がれる生簀の鯛には会えない。

今日のは、初めて聞いた古典落語の演目『居酒屋』というので、やっぱり惹き込まれた。

が、やっぱり生簀のあの鯛に会いたい。

 

はん治さんは、

いつ、

どこで、

再びあの生簀の鯛になるのだろう…。

 

その日、

その場所に、

なんとしても居合わせたいのだ。

 

 

 

「ボンちゃん。三遊亭歌之介さんもエンジン全開だったね」

 

 

 

 

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2008.09.03

プロフェッショナルとは

日本人の歴史がそうさせているのだろうが、日本人は生真面目で勤勉な人種であるように感じる事が多い。

ゆっくりしたり、遊んだりするのが罪悪だと思っている節が、いまだにどこかにあるのではないだろうか。

クタクタになって働き、やっと休暇を取ってゆっくりするのかと思いきや、緻密なスケジュールを組んでいるツアーに参加したりして、休暇後は、休暇疲れが加わって休暇前より疲れたりしている。

西洋人から見たら、まさに漫才かコントに映るだろうと思う。

 

いつも張り詰めていたら、いつか糸はプッツリと切れるものである。

玉ログでも折に触れ記していることだが、運期(運気)を告げる四柱推命学では、人生にも春夏秋冬のような季節、運気の流れがあると告げる。

私の占い鑑定にいらした方の中にも、自分の肌で運気のようなものを感じ取っていて、それに見合った活動をしてきている人がいる。

そういう人は、やるべき事が分かっていて、極度なストレスに苛まれていない。

一方で、運気とは真逆な活動をしてきているような人がいる。

そういう人は、心身ともに疲れ果てていて、不眠症で悩んでいたり、持病に苦しんでいたりする。

 

昨夜の番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演されていた、水泳の平井伯昌コーチ(北島康介選手と中村礼子選手をオリンピックのメダリストに導いたことで知られる)は、選手の個性を把握し、それぞれに合った指導とフォローに努め、その時々に必要なアドバイスを明確なポイントで伝えられる、指導者の鏡のような方だとつくづく思った。

選手たちは、心から信頼する平井コーチの助言を受けることで、その時々においての万全な力の入れ方が明確になるのだろう。

 

どんな事でも、力の入れ方が間違っていると、不必要にストレス度が上がり、気負うばかりで、成果が出にくいものである。

 

プロフェッショナルとは・・・、

「その時々に合った、力の入れ方が分かる人」

なのかな。

 

「ボンちゃん。ボスゴリラは力の入れ方を知っているよね」

 

 

 

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2008.09.02

唯一無二の存在

「多くの人に愛される作家か、読者は少数でも深く愛される作家のどちらを目指すのか思案中です」新聞にあった、この言葉が目に付いた。

第20回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞に決まった里見蘭さんのコメントである。

この真綿に包まれたような表現が、なんとなく分かるようで、真意がつかめず、すっきりしないからちょっと考えてみた。

「作家」の部分を「人」に置き換えてみた。

〈多くの人に愛される「人」か、少数でも深く愛される「人」のどちらを目指すのか思案中です〉となる。

〈多くの人に愛される「人」〉というのは、マザーテレサのような、己の私欲を捨てて生きる人に当たることになるだろう。ということは、〈少数でも深く愛される「人」〉は俗世界に生きる人ということになる。

なるほど、商業作家になるか、ベストセラー作家にはなれないかもしれないが、自分が本当に書きたいことだけを書く作家を目指すか、それを思案中だということなのか…?。

大多数と少数の狭間に揺れる思いというのは、誰しもにつきまとうものである。 

愛されるということに限定するならば、 

多くの人に愛されなくてもいいから、

自分を深く愛してくれる唯一無二の存在に逢いたい。

と、俗世間の多くの人は思っているものではないだろうか・・・。

 

「ボンちゃん。ゴリラも、ボスゴリラに頼らずに誰もが生きられるような環境が生まれてくれば、自然に一夫一婦制になるのかもね」

 

 

 

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2008.09.01

逢いたくなる音色

玄関の天窓(450mm x 1200mm)に入れるステンドグラスパネルの制作依頼が入り、さっきからデザインを考えているのだが、「君をのせて~♪」だと、どうもノラナイ。

ここぞ、と集中したい時や、気分がいまひとつ乗らない時など、必ずと言って良いほど私はクラウディオ バリョーニの曲を流す。クラウディオの曲が流れ出すと、散漫としていた60兆個の細胞チャンが整列し、目的を遂げようと協力的になってくれるのか、心血を注げるようになる。

社会人になってから入学した大学の、山ほどあった心理学のレポートを書くことができたのも、単位を落とさず無事に、この春に卒業できたのも、クラウディオのお力添えあってのことなのだ。

クラウディオ・バリョーニの声、曲は、また逢いたくなる音色をしている。

集中したい今、なぜクラウディオを聴かずに「君をのせて」を聴いているかというと、オカリナ演奏時に楽譜が手放せないくせに休符を飛ばしがちな私に、「こらぁー!明日までに暗譜し、原曲を何度も何度も何度も聴いて、しっかりと頭に入れてくるよーにぃー!いいですね!」、と、伴奏のウクレレ奏者から通告されているからなのである。

目指すは、オカリナで逢いたくなる音色を出すことなんだぜぃ、ぜぃ。

 

「ボンちゃん。クラウディオが『君をのせて』を歌ったら、間違いなく集中できるのにね…」

 

 

 

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