自分が作家だとする。
自分の小説が映画化されると決まったら、何を望むだろうか?
原作の世界観を壊さないように。
と、願う作家は多いのではないだろうか。
その講演を聴くまでは、私もそれ以外の選択肢は考えられなかったように思う。
アレッサンドロ・バリッコ(Alessandro Baricco、イタリア人作家、1959年、北イタリアのトリノ生まれ)がいま来日している。
講演を聞き、彼の言葉を拾い集めていたら、考えの幅が少し広がったように思う。
アレッサンドロ・バリッコとは、映画『海の上のピアニスト』(監督、ジュゼッペ・トルナトーレ)の原作者である。他にも日本語に翻訳されている本が3冊出版されている。
彼は、映画制作現場には、よほど会いたい女優でもいない限りは、何度誘いを受けても、絶対に現場には行かないという。
話が、〈小説と、映画化された作品との距離感>に及んだ時、次のようなことを語った。
監督が作家に気を使い過ぎると、決して良い作品が出来ない。
作品が小説に引っ張られ過ぎると、いまひとつ監督の作品になりきれない。(ご自身の映画化された一つの作品の評価)
映画化されたものは監督の作品であり、私の作品ではない。
実際、彼の書いた陽気な小説が、映画化され、悲しい内容に変化していたりする。
他にも、彼にはその人物の人種を変えることなどあり得ないことが、映画化され、その人物の人種が変わっていたりする。
彼自身がそれをどう見ているかというと、評価している部分と、首をかしげてしまう部分とが錯綜している感がある。
それでも、彼はそれはそれで容認している。
アレッサンドロ・バリッコも、映画制作が始まる前は、監督と綿密な打ち合わせをすると言っていた。
彼にとっての綿密な打ち合わせとは、こうして欲しい、ああして欲しいと意向を伝えるものではないのかもしれない。
その小説を生んだ者の存在を知らしめることで、忘れられないほど深く感動させること。
その小説に宿る魂に触れてもらうこと。
それによって、監督が、心震わせ、魂を奮い立たせ、新しく創造する。その手助けなのかもしれない。
よくよく考えてみれば、映画化されるということは、自分以外の人物の魂が、その作品に入り込むことであり、時に、則られる可能性もあるということなのだ。
今ではイタリア文学界を代表する作家となった彼だが、昔は自分が哲学者になると思っていたという。
哲学者らしい、創造的、独創的という、理解、解釈のように思えた。
「ボンちゃん。原作者が監督にゴチャゴチャ指示しても、結局は中途半端なものになるだけだから、口を出さない方がいいってことなのだろうね」
