« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月

2008.10.31

宇宙の子供なのだ。

人間はサムシンググレートが丹精込めて作り上げた命。

137億年の苦労の結晶だから尊い。

自分の命だから粗末にしてもよいと考えるのは傲慢なことだ。

と、遺伝子学研究者、筑波大学名誉教授の村上和雄氏は言う。(宮本亜門の『バタアシ人生』世界文化社より)

 

村上氏の宇宙スケールのご説明は以下のようなものである。

 

137億年前にビッグバンが起き、水素元素ができたのだ。

それは人間の体の中にもあるものなのだ。

人間が死ぬと酸素が炭酸ガスになるのだ。

それが世界を駆け巡るのだ。

木がそれを吸収して、動物が食べ、また人間が食べるのだ。

元素が輪廻転生していることなのだ。

だから我々のカラダは宇宙の借り物なのだ。

生き物の死亡率100%なのはその証拠なのだ。

全部返すからなのだ。

命が物質から生まれたという証拠は何もないのだ。

最初に大きな命があったかもしれないとも考えられることなのだ。

物質レベルでは輪廻転生なのだ。

宇宙から来て宇宙に帰るのだ。

ぼくらはみんな、宇宙の子供なのだ。

 

バカボンのパパも、青空の梅干に祈りながら、そんなことを考えていたのではないだろうか。

 

「ボンちゃん。ゴリラも人間も、同じファミリーなのだね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.30

猫のFufu

イタリアはシチリア、コミソに住むメス猫、Fufuの実話である。

飼われていた頃、Fufuは生まれて数ヶ月の子猫だった。

ある日、Fufuは忽然と姿を消してしまった。

それから8年の歳月が過ぎ、Fufuは家族(夫と三匹の子)を連れて家に帰ってきたのである。

Fufuには身体的特徴(前歯が2本欠け、尾っぽに傷)があったため、飼い主は、年を重ねたFufuを見ても直ぐに分かったという。

なぜFufuは姿を消してしまったのだろうか?

飼い主は次のように語った。

〈その頃、犬を飼っていて、Fufuとうまくいっていなかった。

不思議に思えることだが、Fufuはその犬の死を知り戻ってきたのだろう〉

Fufuが戻って来た1ヶ月前に、その犬は亡くなったのだという。

Fufuは、その家の様子を、8年間見続けていたのだろうか…。

猫は、心地よくない場所から、さっさと遠ざかる。

楽しい事を追い求め、好きなように、勝手気ままに生きている。

寅さんは、猫のようだと思っているのは私だけだろうか…。

 

「ボンちゃん。そういえば、トラはネコ科だものね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.29

香りと記憶

香り・匂いは記憶を呼び覚ますと言われている。

通りすがりの人のコロンの香りに、過去の恋人を思い出し心震わせた。そんな経験をしたことのある人は少なくないだろうと思う。

医療現場における研究者の報告では、認知症の患者さんにヌカミソの匂いを嗅いでもらったら、顔に笑みが浮かび、周りの人に話かけるようになった(高島徹治『いきなり成果が出る能率10倍の勉強法』すばる舎2008より)というから、医療に、香り・匂い治療が導入される日も近いのではないだろうか。

その本によれば、香り・匂いにも覚醒系と鎮静系があり、用途に応じて部屋の香りを変えると良いとあった。

また、チョコレートの香りには、記憶力増強の作用があるそうで、単語を覚える時などは、チョコレートを食べながら暗記すると良いという。

私は、ESTEBAN社の「NOTE MARINE 2」のお香をくゆらせ、地中海ブルーの香りに包まれた中で、もっともカカオポリフェノールが多いMeiji チョコレート効果 CACAO99%を食べながら、イタリア語の単語を覚えている。

ちなみに味はというと、(;゚Д゚)いまだかつて口にしたことの無い、過酷な苦さである。

CACAO86%と交互に食べると良いのかもしれない。

 

「ボンちゃん。 ゴリラはどんな香りが好き?」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.28

だから、さー!

「だから、さー!」

話しの流れを受けているわけではないのに、「だから、さー!」という言葉をイラッとした感じで、口癖のように使用する人がいる。

それはまるで、その人が人生上で抱えた不満の全ての怒りのマグマが、その瞬間の状況で吹き出ているかのように見える。

言っている本人は気づいていないように見受けられるが、聞く側は、聞く度に、そのイラッが伝播し、不快な気分を覚えるものである。

「あのね、ここは君の王国ではないのだよ」と、呟きたくもなるものだ。

 

そこで、「だから」を辞書で調べてみた。

「だから」とは、〈接〉前の事柄を受けて、それを理由として順当に起こる内容を導く語。そうであるから。それゆえ。例文〈親切な人だ。 ‐だから‐ みんなに好かれる〉(大辞泉,小学館より)

これが、本来の使われ方なのだ。

こういう例文もいいかもしれない。

〈世の中の事が、すべて自分の思い通りになると思い込んでいる幼稚な人だ。 ‐だから‐ 「だから、さー!」と言うのだろう〉

「だから、さー!」は、自己主張と、相手をやり込めたい思いと、欲求不満、これらが合わさって高揚感が吹き出た瞬間、いわゆる“キレ”なのだろうと思う。

 

その人が、キレやすい人だと分かったら、百年の恋も冷めるだろう。

 

「ボンちゃん。不満は不満を呼ぶよね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.27

雹(ヒョウ)

夕方、ヒョウが降った。

電車の窓を激しく叩くヒョウを見ていたら、亀山薫くんの涙は、このヒョウのように固まり、強い意志となって、前に進もうと思っただろうか…、そんな思いがよぎった。

少し前のニュースだが、亀山薫『相棒』卒業、に驚いた人は少なくないだろうと思う。

その衝撃に、自分を水谷豊さんに置き換え、寺脇康文さんに置き換え、深く考えた。

杉下右京は水谷豊さんでなければ杉下右京に成り得ないと思う。それは、車寅次郎が渥美清さん以外に考えられないのと同じようなものだろう。

寅さんの側にはいつも、さくらさんがいるように、右京さんの側には亀山くんがいて欲しいとやはり思うのだ。

小学生の頃、私は水谷豊さんが好きだった。時を経た今もそれは変わらないのだが、寺脇康文さんも、水谷豊さんに憧れたひとりなのだ。俳優を目指したのもそれが理由で、『相棒』の亀山薫役を得るチャンスを掴めたのも、そういったことが含まれての抜擢だと何かの記事で読んだことがある。

今、雑誌「TRUE VIEW」に22ページの『相棒』特集が掲載されていて、「馬鹿正直の結晶である『相棒』を見て“世の中捨てたもんじゃない"と思ってもらえたら、それがテレビの果たすべき正しい役割だと思っている」と、制作者の言葉が載っていたが、『相棒』がこれだけの人気を集めた大きな理由は、自分を信じ、自分を貫いている人を見ていると、人は感動するということなのだろう。

『相棒』には、自分が正しいと信じるものには妥協せず、抵抗勢力に決して屈しない強さ、純粋さ、真っ正直に事に挑む崇高さと猛々しさがある。

生き方に美学があり、それにこだわる姿がある。

『相棒』から亀山薫がいなくなる日がくると思うと淋しいが、寺脇さんはきっと、憧れの俳優、水谷豊さんに比肩する俳優になろうと、意志を固めたに違いない。

ヒョウが止む頃には、そんなふうに思えてきた。

 

「ボンちゃん。仮想の世界までもが、無情なまでに無常だと、なんだか悲しいね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.26

いだき、いだかれ。

大杉漣さんが、北野武監督との関係性について語っている。(週刊文春、10/30号)

役者と監督には、いい緊張感が必要だ。いい作品を生みたいから、監督とは親しくなり過ぎないように気をつけている。それ無しには、醸し出せない雰囲気がある。その関係性は、恋人との関係性にも似ている。と。

確かに、多くの場合、好きな人ができると、その人のすべてを知りたいし、すべてを理解したいと願いがちである。

プラトニックラブが永遠の恋に思えるのは、全てが見たいのに、見られない。だから、抱けるし、抱かれるからなのだ。

抱き、抱かれ。

これが、いい関係の究極な理想像なのだろう。

恋愛でも、夫婦愛でも、すべてを見ようとしない、すべてを見せないでいる、その緊張感が、いいのかもしれないね。

 

「ボンちゃん。ゴリラも、抱きたいし、抱かれたい?」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.25

バリッコの品格

自分が作家だとする。

自分の小説が映画化されると決まったら、何を望むだろうか?

原作の世界観を壊さないように。

と、願う作家は多いのではないだろうか。

その講演を聴くまでは、私もそれ以外の選択肢は考えられなかったように思う。

アレッサンドロ・バリッコ(Alessandro Baricco、イタリア人作家、1959年、北イタリアのトリノ生まれ)がいま来日している。
講演を聞き、彼の言葉を拾い集めていたら、考えの幅が少し広がったように思う。

アレッサンドロ・バリッコとは、映画『海の上のピアニスト』(監督、ジュゼッペ・トルナトーレ)の原作者である。他にも日本語に翻訳されている本が3冊出版されている。

彼は、映画制作現場には、よほど会いたい女優でもいない限りは、何度誘いを受けても、絶対に現場には行かないという。

話が、〈小説と、映画化された作品との距離感>に及んだ時、次のようなことを語った。

監督が作家に気を使い過ぎると、決して良い作品が出来ない。

作品が小説に引っ張られ過ぎると、いまひとつ監督の作品になりきれない。(ご自身の映画化された一つの作品の評価)

映画化されたものは監督の作品であり、私の作品ではない。

実際、彼の書いた陽気な小説が、映画化され、悲しい内容に変化していたりする。

他にも、彼にはその人物の人種を変えることなどあり得ないことが、映画化され、その人物の人種が変わっていたりする。

彼自身がそれをどう見ているかというと、評価している部分と、首をかしげてしまう部分とが錯綜している感がある。

それでも、彼はそれはそれで容認している。

アレッサンドロ・バリッコも、映画制作が始まる前は、監督と綿密な打ち合わせをすると言っていた。

彼にとっての綿密な打ち合わせとは、こうして欲しい、ああして欲しいと意向を伝えるものではないのかもしれない。

その小説を生んだ者の存在を知らしめることで、忘れられないほど深く感動させること。

その小説に宿る魂に触れてもらうこと。

それによって、監督が、心震わせ、魂を奮い立たせ、新しく創造する。その手助けなのかもしれない。

よくよく考えてみれば、映画化されるということは、自分以外の人物の魂が、その作品に入り込むことであり、時に、則られる可能性もあるということなのだ。

今ではイタリア文学界を代表する作家となった彼だが、昔は自分が哲学者になると思っていたという。

哲学者らしい、創造的、独創的という、理解、解釈のように思えた。

「ボンちゃん。原作者が監督にゴチャゴチャ指示しても、結局は中途半端なものになるだけだから、口を出さない方がいいってことなのだろうね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.24

バルゼレッテ

イタリアでは、友人が集ると、お決まりのようにbarzelette-バルゼレッテ(イタリア語、笑い話の意)をする人が出てくる。

井上ひさし『ボローニャ紀行』文芸春秋2008 を読んでいたら、イタリアでベストセラーのトップを独走していた『トッティについての笑い話のすべて』という本の内容の一部が紹介されていた。

トッティといえば、天才サッカー選手で超イケメンの、セリエA、ASローマのMF、「ローマの王子様」と呼ばれるフランチェスコ・トッティのことである。

そんな麗しき彼の知られざる素顔、お茶目ぶりというか、アホぶりマヌケぶりが、笑い話として詰め込まれている本だという。

そのバルゼレッテの一つを紹介したい。

トッティが練習場に現れた途端に、チームのみんなが笑った。

キャプテンに対して失礼だと、怒ったトッティに、マルコ・デル・ベッキオが言う。

「靴があっちこっちだから笑っているんだよ。片足がアディダスで、もう片方がナイキじゃないか。取り替えておいでよ」

トッティが言う。

「マルコ、おまえってほんとうにおバカさんだな。うちに帰ったって、アディダスとナイキのあっちこっちな靴があるだけじゃないか。なにをしに帰ればいいんだよ」、と。

私は、それが履きやすくて、敢えてそういう履き方をしているのかと、一瞬思ってしまった。

が、これは笑い話。ここでイタリア人は間違いなく爆笑し、涙が出るまで笑うのだろうと思う。ハハッハ。

 

随分前のことだが、イタリア人の友人から、トッティに関するバルゼレッテを聞いた事がある。

トッティがチームメートのみんなとレストランで食事をしていた時のことだった。

あるメンバーが携帯電話を探していた。

電話を鳴らせば在りかが分かると、トッティが助言し、彼の携帯を鳴らした。

すると、呼び出し音が目の前に置かれていたスパゲッティの中から聞こえて来たのである。

いたずら好きなトッティの仕業に、チームはお腹をかかえて笑ったというが、一人、激怒していた者がいたのは言うまでも無いことだろう。

 

「ボンちゃん。バルゼレッテはいい文化だね」

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.23

ミスター・ボオ

やなせたかしさんの特集が『NHK知るを楽しむ「人生の歩き方」』に掲載されている。

『アンパンマン』は、『風と共に去りぬ』が見本となっているのだそうである。

美人でわがままで強気なドキンちゃんがスカーレット・ オハラ、バタコさんがおとなしいメラニー、しょくぱんまんが2枚目で知的なアシュレーだという。

昨夜のNHKの同TV番組で、アンパンマンが誕生する以前に応募した懸賞漫画『ミスター・ボオ』の話をされていた。

プロの漫画家となってからの応募で、意を決しての挑戦だったという。

その名が、某氏からとってのミスター・ボオなのだ。

当時、いつも某氏として紹介されていたやなせさんは、ミスター・ボオをきっとご自身の姿と重ねたのだろう。

逆光に立ち、帽子を被っていて顔が見えないミスター・ボオの哀愁漂う姿が印象的だった。

ミスター・ボオは見事入選したが、やなせさんの名が直ぐに有名になったわけではなく、アンパンマンが誕生した時、やなせさんは50歳を過ぎていたという。

やなせさんは言う。

「優れたものの根底には、詩的精神、叙情性がある」、と。

そういえば、やなせさんはいつも帽子を被っている。

やなせさんを知らない日本人はいない今となっても、逆境とも思える逆光を背にし、帽子を被るミスター・ボウは、やなせさんの中で生き続けているように思えた。

 

「ボンちゃん。どんなに有名になっても、自分を見失わずに、おごり高ぶらずにいられるって、凄いことだね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.22

同年同月同日同時

<信長と同年同月同日同時に生まれし者を尋ね出し給ふ>

(磯田道史『江戸の備忘録』朝日新聞出版,2008より)

 

戦の際には、占術が活用されていたと言われている。

四柱推命のように、生年月日から、その人の気質や運気を告げる運命術の存在を知ると、同じ時に生まれた他人が気になるものだろう。

 

織田信長は、お触れを出した程だから、知的好奇心と執着心の強い気質が窺われる。

 

見つかった男に信長が言った。

「わしは天下を取り、おまえは極貧。同時に生まれても、運命がだいぶん違うな」

極貧男が言った。

「いえ。上様と、わたしは大差ありません。ただ一日の違いだけです」

 

予想外の返答に驚いた信長が、その一日とは何かと聞くと、極貧男が更に続けて言った。

「天下を持っても、貧しさに極まっても、それは昨日までの過去のこと。上様とて明日はわかりませぬ。今日一日のみ、上様は天下の主として楽しまれ、わたしも今日一日のみ極貧に苦しんでいるだけです」

 

度肝を抜かれた信長だったが、深い感動を覚え、多くの褒美を男に持たせて帰したのだという。

 

信長のイメージと、極貧男の言葉から判断したイメージ、この共通点を挙げるならば、「豪気」「鋼気」「豪儀」になるだろうか。

 

極貧という立場で全く卑屈にもならずに、天下様を前にして、これだけの事が言えるのだから、もしかしたら信長を超えているのではないかとも思えてしまう。

同年同月同日同時生まれの誰かも、今日と直面し、立ち向かっていると思うと、負けてはいられぬ、と思うのである。

 

「ボンちゃん。もし、同年同月同日同時生まれの人に会えたら、良きライバルになれるだろうね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.21

努力

最近、イタリア語の動詞の活用を暗記するのに、四苦八苦している。

その覚える量の多さに、心のどこかで覚えられない理由と言い訳を、あれこれと考えているのには気づいていた。

できない理由を考えるというのも、結構疲れるものである。

よくよく考えてみれば、それは恐らく後ろ向きな努力をしていることなのだろう。

同じ努力でも、暗記することだけに集中するならば、それは前向きな努力と言える。

プラス思考は前向きな努力。

マイナス思考は後ろ向きな努力。

どうせ努力するのだったら、前向きな努力の方が実りがあるに決まっている。

後ろ向きな努力は、時間と労力の無駄なのだ。

と、自戒したのだった。

 

「ボンちゃん。覚えればいいだけなのだから、簡単なのだよね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.20

海よ空よ

ずうずうしい人への対応策を見つけるというのは、なかなか難しいもので、結局のところ、いかにして自分の気分を変えるか、これしか対処法は無いのだろうと思う。

読売新聞の人生案内にあった記事、ずうずうしい人が憎い、という相談者に対するアドバイスとして、精神科医、野村総一郎氏の言葉が印象に残った。

「私の場合、嫌な目にあうと、いつも大空を見上げることにしているんです。そこには雲や星や月があって、宇宙の存在を感じさせてくれます。人間この中で生きているんだ、と実感すれば、嫌なやつ、良い人、どちらにしても大したことない、自分自身だってそうだ、という気にもなってくる。そうすると、なんとなく自由になれるんです」(原文より)

読売新聞、編集手帳に、人間は「感受性抜群のバカ」になる可能性があるという類の言葉があり、なるほど上手い表現だと思ったが、犯罪心理学においても、特別な人間だけが犯罪者になるわけでは無いと説いている。

気分の転換を図る手段を見つけることが、感受性をコントロールする上で重要なことなのだろうと思う。

 

「ボンちゃん。海も空も広くて大きいものね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.19

お天道様

「やる気」が起きない人というのは、「やる気」という気が、体に満ちていないからなのだろう。

自分が何をやりたいのか、分からない。

やりたいことを探す気力もない。

占い鑑定をしていると、「やる気」が起きない事が悩みだとおっしゃる方がいる。

そういう方にも、健康維持、増進を願う方にも、考え方が後ろ向きになりがちな方にも、是非お勧めしたい方法がある。

体に「やる気」を注入すること。

方法は至って簡単で、早起きするぞ!と自分の意志で決め、起きて散歩するだけのことなのだ。

夜11時に寝て、朝5時に起き、1時間ほど散歩し、朝の気を取り入れることで体に陽の気が取り入れられていく。

事情で生活のリズムを全て変えられないという人は、まずは1週間に1度でもいい(参考:税所弘『朝方人間の奥義』講談社2008)

健康のもとは、「精気、元気、鋭気」で、これらが体内に満ち、循環しだせば、やる気に満ちた生活を送ることができるようになり、人間としてもっと充実するのだという。

単純に考えれば、

夜は陰の気が満ちているから、夜型人間は、陰気になる。

朝は陽の気が満ちているから、朝方人間は、陽気になる。


お天道様は偉大だ。

「ボンちゃん。太陽という字は「太」い「陽」と書くものね」

|

2008.10.18

海辺のカエル

潮騒を聞きながら、ひとり、暮れゆく夕陽を眺めているカエルに会った。

体長3cmほどの、目のクリッとしたスリムなカエルだった。

1時間ほど、ここでオカリナを吹いてもよいかと聞くと、カエルは、「いいよ。ケロッ」と言った、気がした。

というのは、昨日、あまりにも空が空色だったから、各駅停車に乗って海まで行ってきたのである。

夕陽が沈む頃、オカリナを吹こうと砂浜に下り、裏返しになっている船の底に鞄を置こうとしたら、白い底にカエルの輪郭があった。

辺りは薄暗くなりかけていたからよく見えず、ふっと息をかけてみたら、ピョンと跳ねた。

その日、一番近くにいた聴衆はカエルで、少し離れたところに白鷺、空にはトンビがくるりと輪を描いて聴いていた。

「次は、〈いつも何度でも〉です。どうぞお聴きください」「次は〈イエスタディ・ワンス・モア〉です。お楽しみください」などと、曲目紹介もした。

カエルは、円らな瞳をウルウルさせ、オカリナを吹き終えるまで、星空と共に、そこにいた。

また来るね、バイバイ。

と、別れを告げると、ピョン、ピョンと闇の中に消えていった。

寂しくなった。

Kaeru2

 

 

 

 

「ボンちゃん。海辺のカエルに、また会いに行こうね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.17

ツカレル

憑かれる(ツカレル)と、疲れる(ツカレル)。

心が疲れる時というのは、次の要素が整ったところに身を置いているものである。
望ましいリズムで事が運べず、気持ちが乗らないものに向かっていて、全く楽しめていないままに力を注いでいる。

言い換えるならば、自らの人間性が効率的に活かされていないと感じる時、心は疲弊するのである。

もう一つ。
見落としがちだが、他者が放っている「気」と波長が合わない時も心は疲れる。

例えば、あの人はどうも苦手で、嫌でしょうがない。そう感じている時は、ある意味、相手の放つ「気」に負けている時なのである。

そんな時こそ、自分に気合いを入れ、相手の「気」を凌駕する「気」を放つことが大切となる。

さもなければ、相手のリズムにはまり、ズルズルと翻弄させられることになる。

翻弄されるということは、相手の「気」に憑かれていると言っても過言ではないだろう。

気合いが入れれば、変な波長の「気」にとり憑かれなくなり、疲れなくなるはず。

そうすれば、物事に追われるのではなく、物事を追う姿勢もとり易くなるものである。

「ボンちゃん。気合いだね!」

|

2008.10.16

満月に贈る言葉

風吹不動天辺月

(風吹けど動ぜず、天辺の月)

たとえ風が吹こうが、天辺の月は動じないの意。

この詩の掛け軸が、小泉元総理の在任中、総理官邸に掛けられていたのだという。

(竹中平蔵「竹中式 マトリクス勉強法」幻冬舎2008より)

 

「ボンちゃん。辛い時こそ、お月さまを見よう」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.15

ブタ受難の年 その2

近所に住むブタのピンクが、座敷ブタから番トンにされてしまった話は、9/19「ブタ受難の年」に記したが、悲しみに暮れた末に眠ることを選んだと思われていたピンクが、最近、いつ見ても起きているのである。

それが、おじさんが休みを利用してブタ小屋を作ってあげてからなのだ。

生きものというのは、愛情を肌で感じるものだと改めて思った次第である。

通りすがりに、「ピンク!」と声をかけると、時にブゥォンと返事をする。大型犬と育ったせいか、鳴き声がやや犬っぽい。

そんな可愛いピンクなのだが、住宅地でブタを飼うというのは問題もある。

まず、においの問題。衛生面、安全性の問題などに不安があり、現にピンクの家の前は強烈なにおいが漂っている。

ピンクには立派な牙もある。

3畳程度の狭い敷地に、手作りでフェンスで囲っているだけだから、脱走し放題で、繋がれていないから、過去に何度も脱走し、その度に騒ぎになっている。

豚は家畜。そろそろ食べ頃だろうに。と、冗談交じりで陰口を言われているのが実情といった感じだろうか。

なぜピンクの話をしているかというと、黒田恭史『豚のPちゃんと32人の小学生』ミネルヴァ書房2008、を読んだからなのである。

本作は、子ブタを「食べる約束」で飼う、という授業を行った新任教師と小学生の実話で、最終的に「食べる、食べない」の決断に迫られるという内容。

13年前にドキュメンタリー番組で放映されたらしいが、この度、主演、妻夫木聡「ブタがいた教室」の映画化が決まったという。

それしにしても、飼うには解決すべき問題を多く抱えているブタを小学生に飼わせ、情が芽生えた時に、迫られる厳しい決断という一連の流れ。

そのことに子供たちが、どれほど心を痛めることか。

多感な子供への教育として、こういった授業を敢えてすることが、本当に子供たちに良い影響を与えるものだろうかと、私はやりきれなさを感じた。

先に記したピンクもそうだが、ペットとして可愛がられている動物や、動物園の多くの動物たちは、人間とふれあっていない動物とは異なると言われている。

このことは研究者も様々な文献で述べていることだが、情動がどこか人間化されてしまうのである。

従って、Pちゃんのようにペットとして可愛がられたブタは、養豚場のブタとは異なると考えるのが自然といえる。と、私は思うのだが…。

 

「ボンちゃん。ゴリラは人間という生きものを、どう思っている?」

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.14

卵の殻で海を渡る

占い鑑定に、こういう方がいらっしゃることがある。

悩みは特に無く、みてもらう事も無いが、待ち合わせまでに少し時間があるから、易占いで10分。

と言ったきり、何を聞いても話そうとしないのである。

まるで、興味本位に、私がクイズを解いていく成り行きを見届けるといった感じで傍観者に成り果てる。

しかし、そういう人に限って、本当は明確に聞きたい事があると決まっている。

素直じゃないことだけは確かだが、よじれたプライドが邪魔をするのか、自分の心を見られないようにスモークを出し、意に反して高見見物といった姿勢を取る。

そんな姿勢で易占いをしても、意味を成さないし、10分という時間も、それにかかる鑑定料も無駄になるという事が全く分かっていない。

しかし、思い込みの強い、自分カラーの濃い中高年の御方に、それを端的に説明し、理解を促したところで、スモークの量が増えるばかりで、卵の殻で海を渡るようなもの。

そこで、ご要望通りに具体的なことを避け、概念的にお答えすると、概念的過ぎて理解しづらい。もっと具体的に言えないものかと言い出す。

それならば、ご自身で点と点を合わせられるようにと、キーワードとしてエッセンスをお伝えすると、今度は、そのキーワードと現実の状況とを自分では上手く合わせられず、卦を疑り出す始末。

もう閉口するしかない。

そこで、易占いの理解に向け、易占入門書には必ず記されている「易占いの態度」というもの記しておこうと思う。

1、常識で判断できることは避ける。

2、具体的に占う。(占的をしぼる)

3、易に相談するという姿勢で行う。

  (クイズを解くような安易な心で行ってはならない)

4、筮前の審事を行う。

  これは医者の問診に似たようなもので、占う際に、それまでの経緯、具体的な事情、原因等を占い師に話すことを指す。その関連情報を考慮した上で、占い師は「卦」を判断するのである。

5.1度目の卦が心に心地よくないからと、卦を疑って再び卦を出してはいけない。

6、不正な事。他に危害を加える事。反社会的な事は占ってはならない。

 

易には、“易の神さま”がいると言われている。

易占いとは、先人たちの叡智を活用したものであり、“易の神さま”とは、まさに先人たちの叡智のことを指している。

易の神さまに相談する気も、敬意を表すつもりもないと意思表示をし、その上で、叡智だけは具体的に欲しいという態度は、まさに先人たちへの礼儀を欠いた振る舞いなのである。

 

「ボンちゃん。易の神さまだって、〈懲らしめてやりなさいっ〉て、水戸のご老公みたいに言うだろうね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.13

水と火を制す者

内面を磨くことに強い情熱を向けていると、外見(見た目)を磨こうとする情熱度は低くなる傾向があるように思う。

なりふりかまわず、一心不乱に研究や勉強に勤しむ人などは、その分かり易い例と思われる。

これを木火土金水の5行説に当てはめるならば、「水」の勢いが強いということになる。

 

一方、外面(見た目)を磨くことに強い情熱を向けていると、内面を磨こうとする情熱度は低くなる傾向があるように思う。

電車の中で、ミュージカルキャッツの舞台化粧を思わせる、凝りに凝った顔作りに熱中している高校生などは、その分かり易い例と思われる。 

これを木火土金水の5行説に当てはめるならば、「火」の勢いが強いということになる。

 

例えば、湿気たマッチは、水が火より増さっているため火が付かない。(水が火を制している)

乾燥しきった森は、その逆で山火事が起きる。(火が水を制している)

このように、「水」「火」のどちらかの勢いが強くなると、片方の勢いは弱まっていくというのが、自然界の摂理である。

内面と外面の魅力というのも、この理屈に同じく、本能の赴くままに興味の強い方ばかりに没頭していると、片方に興味がなくなってくる。

その結果、どんどん片方に偏ってくるというのが5行説に則った私の持論なのである。

従って、内面からも外面からも魅力を放っている人というのは、日々意識的に努力して、内面の美と外面の美のバランス維持に心がけている人であり、インプットとアウトプットのバランスに長けている、物事を総合的・相対的・客観的に見ることのできる、自分を高めようとする意識の強い人といえる。

それは水と火を制す者なのである。

 

「ボンちゃん。努力無しに、多くの魅力は放てないってことだね」 

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.12

運不足にご注意!?

Chi e` forutunato in amore, sfortunato al gioco.

〈恋に恵まれれば、賭け事にはつきがない〉

次のような言い方もする。

Sfortunati al gioco, fortunati in amore.

〈賭け事につきがなければ、恋に恵まれる〉

 

イタリアの諺なのだが、その心は何かと考えてみた。

賭け事も恋も、自分の力が及ばない領域があり、なかなか自分の思い通りには事が運ばない代表格である。

運頼み的な要素が強いという点も共通している。

運に関して、なんとなく思っている事がある。

それは、人にはそれぞれに決まった運の持ち分というのがあって、たとえば賭け事に運が向くというのは、その分の運が消費されることであり、どんどこと運消費活動をしていると、大きな運が必要な時や、恋成就を願う時などに運不足が生じたりするのではないか、と。

 

「ボンちゃん。運の利用は慎重にした方がいいと思わない?」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.11

ノーベル夫婦賞

「妻が喜んでくれるなら 僕も嬉しい」

もし、この言葉が桂三枝さんのTV番組「新婚さん いらっしゃい」に出場した、特色ある新妻を溺愛する若きナヨナヨ夫の口から出たものであったら、笑って聞き流していただろう。

が、この御言葉を発したのは、80歳の日本人男性で、今や時の人となっている、ノーベル化学賞を受賞された下村脩博士なのである。

情熱と愛情が熟成されると、こんなにも爽やかな言葉が、自然に紡ぎ出されるものかと思った。

感謝の言葉を素直に口に出来る人は、魅力を感じる。

50年前に、日本食の無い異国の地で、毎日3000匹、計85万匹のオワンクラゲを博士と共に捕まえたかった、と正直思ったほどである。

80歳にして、「妻が喜んでくれるなら 僕も嬉しい」とサラリと言える日本人男性はどれだけいるだろうか。

 

「ボンちゃん。下村博士は、ノーベル夫婦賞も同時受賞だね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.10

元ノラ猫

木登り好きな猫が公園にいる。

ノラ猫なのだが、公園を訪れる人が可愛がっていて、束縛もされず、食には不自由せずと、自由気ままな猫人生を謳歌している。

近くにいた人が、名前はネロだと教えてくれた。  Neko1_2

 

 

 

ネロを見ていたら、元ノラ猫、2匹を思い出した。

1匹は、内田百間さんがこよなく愛していたノラである。 

ある日を境に、ノラは姿を消してしまった。内田さんは泣き続け、必死に探し続すのだが、再びノラが帰ってくることはなかった。その深い悲しみが『ノラや』に記されている。

もう1匹は、緒形拳さんにだけ懐いていたというオオイである。

名前の由来がユニークで、次々通るノラ猫に京浜東北線の駅名を宛がっていたら、大井町だけが寄ってきて、それでオオイと名づけ、家で飼うようになったのだという。

追悼番組として放映されていた「徹子の部屋」で、緒形さんとオオイの仲むつまじい様子が映し出されていた。

内田百間さんがそうしたように、今、オオイが緒形さんの帰りを待っているのかと思うと、更に涙が出てくる。

 

「ボンちゃん。緒形さんの、あの人懐っこい笑顔は、ずっと忘れないね」

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.09

不器用な美学

マルチな才人として知られた、故、伊丹十三さんについて、浅井慎平さん(写真家)が語っていた。

伊丹さんという人は、“マルチな才人伊丹十三”という完璧なイメージの実現と、その維持のために「コウアラネバナラヌ」、「セネバナラヌ」と、命を埋め尽くした人だったという。

才能のある人は、アンバランスなところがあり、欠けている部分や欠落を埋めようと、バランスをとろうと、何かを表現せざるをえなくなる。

生き方という意味では不器用な人で、だからこそスタイル無しには生きられない人だったのではないか、と。

最も印象に残ったのが、次の言葉である。

「スタイルを作らないと生きられない。不器用ゆえのクリエイティブということがある。それをやらなければ生きられない、切実な人もいる」(『NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝』日本放送出版協会,2008より)

伊丹さんのように、完璧主義という美学に則り、悲しい最後を遂げた作家は多い。

生き方を、器用と不器用に二分するなら、納得と究極を追い求める、凝り性な人というのは、間違いなく不器用に属するのだろう。

別の言い方をすれば、生き方に、その美学を持たなければ生きられない人たちである。

生き方というのは、A型の血液をB型の血液に入れ替えられないのと同じで、器用に生きられる人は器用にしか、不器用に生きられる人は不器用にしか、生きられない。

そういうものなのかもしれない。

 

「ボンちゃん。結局は、どちらかを全うするしか、ないのかもね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.08

叡智

「人間性と効率性とが最大化されるところに叡知があることだけは、事実であろう。そして、効率化は余裕を生む。余裕が生まれれば、新しい創造が始まる」(茂木健一郎『ひらめきの導火線』PHP,2008より)

自分の師匠から、それでいいんだよ。と、言われるほど嬉しいことはないだろう。

茂木健一郎氏の言葉を見つけた時、いままで自分が信じてきたことが確信に変わり、嬉しかった。

いつものごとく、東大の方角に向かって、一礼をした次第である。

 

「叡智」と「嬉しい」と言えば、2008年のノーベル物理学賞、日本人三氏の受賞である。

ノーベル賞は、同部門では三名までと決められているから、更に感動を呼ぶ。

悲惨な事件、不安定な政局、世界的株安、景気の不安定、そして名優、緒形拳さん他界…。

と、心が沈みがちなニュースばかりだったから、このビッグニュースに心が少し救われた人も多いと思う。

過去の日本人受賞者としては最高齢で受賞された、南部陽一郎氏(シカゴ大学名誉教授)は、そのお人柄から、師と仰ぐ科学者が多いという。

物理学の王道に大きな貢献を果たした師匠の叡智に、涙し、また科学者が新たなる創造を生むのだろう。

叡智は、人を勇気づける。

と、改めて思ったのだった。

 

「ボンちゃん。ノーベル賞は、物理学・化学・生理学および医学・文学・平和・経済学の6部門だから、哲学はないね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.07

夢と切実な思い

自分の目指す自分像に、自分を近づけられる人と、望んではいるが、近づけられない人とがいる。

目下大活躍中のエドはるみさんは、まさに前者に当てはまる人としてすぐに思い浮かぶ。

その差は何か?を今日は考えてみたい。

五木ひろしさんと眞鍋かをりさんの対談記事を読んでいたら、これかな、と思い当たった言葉を見つけた。

五木さんの歌手生活は最初から順調だったわけではない。
16歳でデビューし、歌が売れずに4回芸名を変える不遇の時代を乗り越え、今年で歌手生活44年目を迎えた。昨年は紫綬褒章の受賞をされている。

〈勝てば官軍、負ければと賊軍と言われる通りで、努力とは、成功して初めて認められるものだとわかった。僕は自分を信じているし、自分が決めた道は絶対に正しいと思ってやってきたから、ここまで来られた〉

常に自分の勘を信じてきたという五木さんの、現実を見据えた切実な言葉であり、夢を夢として終わらせたくない人に向けた、厳しくも暖かい言葉のように思えた。

勘の良い悪いはあるのかもしれないが、勘という自分のひらめきを、ただの自分よがりな思い込みとして終わらせるものか!という切実な思いが、その勘を支えるのではないかと思う。

勘の実現に向け、経験と失敗を教訓にし、次なる勘が生まれる。

またその勘を支える。

といったように、自分のひらめきに、当たってみて、たまには砕けて、また当たる。

〈自分が決めた道は絶対に正しいと思ってやってきた〉

この言葉からは、この人だったら、何をやったとしても、目指す自分を実現するまでは妥協しないだろう、という気迫を感じる。

夢を叶えたい人が、その夢を実現化できるかどうかは、自分の思いが現実となるまでは妥協しないという“切実な思い”が心の深部にあるかどうかなのだろう。

 

「ボンちゃん。考えてみれば、切実な問題を抱えると、イッチョ何とかしよう!と、思うものね」

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.06

シュールな存在

脳科学者、茂木健一郎氏曰わく、全ての生き物はシグナルを放っていて、脳には、そのシグナルをつかむ深部感覚が備わっているのだという。

空気を読む能力、とも言い換えられるのかもしれない。

ゴリラのコミュニケーションを観察していると、瞬間的に空気を感じる力というか、気配を察知する力が物凄く高く、他者の眼差しから心の在り様を読み取っているように感じる。

以前に飼育関係者から聞いた話だが、ゴリラという生き物は、ゴリラ同士でも相性が合わなければ同居させることができないし、対人間との相性でも、担当者の人間が、ゴリラの御めがねに適わなければ、すぐに担当を変えるしかないのだという。

なぜならば、ゴリラは、その人間に永遠に心を開くことをしないから、飼育に支障が生じてしまうのである。

放飼場に同居していたとしても、一緒に暮らしたいと、自らが望んだ相手ではないわけで、あまり興味がなかったりする場合は、ポツン、ポツンと座り、コミュニケーションを取る気配は一切みられない。

自分の感覚が認めた者だけを信用し、その他には一切興味を示さないというゴリラの美学には、やはりシュールさを感じる。

能力という意味では、そんな卓越した、超、能力であるゴリラの洞察力は、寡黙でなければ淘汰されていく才であるような気がする。

ペラペラと喋り、ゲタゲタゲタゲタと笑う生き物には宿ることができない、シュールな能力のように思える。

長年、人間を見つめる環境で生きるゴリラ達は、人間の心を見抜き、何を思っているのだろうか…。

 

「ボンちゃん。ゴリラはシュールなの?」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.05

見た目の戦略

アメリカの心理学者、メーラビアンは、人がいかに外見重視であるか、を次のように発表している。

人の印象は、

55%が、容姿・身だしなみ・しぐさ・表情によって決まり、
38%が、声質・声の高さ・話す速度で決まり、
7%が、話の内容で決まる。

(渋谷昌三『人から好かれる見た目術 なぜか敬遠される人の見た目術』新講社2008より)

人間は、80%以上を占める情報を、視覚器官から得ていると言われている。

私たちは、無意識にも見た目で人を判断しているはずなのだ。

価値観で考えても、日本の文化の基本は「思いやり」。日本人というのは、配慮を重んじる感度が高い人種といえる。

従って、自分が他者にどう写るかを気する感度が高ければ、見た目を意識するはずであり、TPOを気にすることができる、配慮の出来る人だと考える図式が成り立っていくことになる。

見た目を意識する派は、身だしなみへの配慮を軽んじる人を、残念ながら次のように見ている傾向があるようだ。

見出しなみを一切気にしない人=他者の思惑を一切気にしない人=周りの人の目に自分がどう写るかという察知力の感度が低い人=配慮が足りない人=自分よがりな人=思いやりが乏しい人=俗世間との関係を絶っている人

世捨て人のような格好をしている人を見て、嫌悪感や不快感を得るその心理には、こんな深層心理があると考えられている。

アメリカの大統領選を見ていると、国民に訴えかけるパフォーマンスレベルの高さが伝わってくるが、まさに、人間は視覚から多くの情報を取る生き物であることが意識されたスピーチであることが分かる。

ダリも、見た目を意識していた人物として知られている。

あのピュンと上がったヒゲを、誰しもが思い出すのではないだろうか。

社会で活躍したいと考えるならば、他者の目を意識した戦略。

自分を演出することが、不可欠となるのだろうと思う。

 

「ボンちゃん。ゴリラも格好つけるよね?」

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.04

ね、笑おう!

心が疲れているかどうかは、すぐに分かる。

まず、活気が無く、生気が感じられない。

顔色は青白く、表情も硬い。

恐らく、目の前のことをこなすことが精一杯で、それにも、もう疲れてきていているのだろう。

現実が嫌だから笑えない。

辛いから笑えない。

悲しいから笑えない。

そうこうしている内に、笑うという行為そのものからどんどん遠ざかっていくことになる。

その結果、緊張が強いられたままで、心身ともに張りつめている状態となる。

必然的に顔の筋肉は緩まないから無表情で、血の循環が悪いから顔色が悪い。

寝起きも悪い。

いつもだるい。

女性だったら特に、肩は凝るし、冷え性となる。

その悪循環を止める方法が、たった一つある。

笑うのだ。

まずは、難しいことは何も考えず、桂三枝さんの創作落語を聞いてみるといい。

私がお腹をかかえて笑った、創作落語のひとつをご紹介したい。

桂三枝爆笑落語大全集 1、桂 三枝/演者 (発売年月 1997年) このCDに「仁義なき校争」という創作落語が収録されている。

きっと笑える。

いや、マチガイナクお腹を抱えて笑える。

冷ややかな目で、斜に構えて、聴いてはいけない。

さあー、笑うぞ!と心に決めて、聴くのだよ。

笑う角には福来る。

ね、笑おう!

 

「ボンちゃん。大人のゴリラも、眼差しで、さりげなく笑うよね?」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.03

ツマラナイ気

挑戦し続けている人からは、心地よい気を感じる。

その逆に、過去、習慣、安泰という殻の中で生きている人は、その殻の世界がその人の全てだから、くすんで見えるし、ツマラナイ気を感じる。

人はなぜか、殻に閉じこもっていると、殻から出ることが恐ろしくなってきて、挑戦ができなくなるようである。

挑戦という改革には“勇気”がいる。

気が勇むと書いて、勇気。「勇む」の意は、心が奮い立つこと。

心が奮い立った気配というのは、挑むことでしか生まれない気なのだろう。

 

人生というものは、未知の世界を歩んでいく宿命からは逃れられない。

従って、冒険とリスクの連続の世界で、私たちは生きているということになる。

冒険とリスクが揃ったところに、改革は起きる。

と、考えれば、改革の連続が人生ということになる。

勝ち組、負け組みなどという様々な言われ方があるが、どんな状況に身を置いても、進歩と前進を望まなければ、誰しもが後退を余儀なくされてしまう。

後退を防ぎたくば、不断に学び、改革し続けるしか道はない。

殻に閉じこもっている怖さと、挑戦する怖さ、この二つを比べたら、殻に居る方がずっと怖い、と私は思う。

 

 

「ボンちゃん。挑戦しだすと、勇気が湧いてくるよね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.02

信じる

人は、何かと向き合い、意味があると感じたものを選択し、毎日を生きている。

それは、自分が決断したことを、よし、これでいってみよう!と、自分を信じて前進していることである。

誰かを信じるというのも、その人物が信じるに足ると判断してのこと。従って、その人を信じると判断を下した、自分を信じるということなのである。

 

生き方の種類が次のように記されていた本があった。

〈宗教や疑似宗教に拠った生き方。その時々に身を預けて危機を回避していく方法。何も考えずに滑っていくことに妥協する方法。

これらの生き方に納得できない人は、一切に頼らず、自らの知性を信じ、自分と徹底抗戦しながら生きる方法〉

(姜尚中 Kang Sang jung『悩む力』集英社新書2008より)

自らの知性を信じる方法の一例として、夏目漱石とウェーバーの名が挙げられていた。

 

何を信じるかは、その人がその時々に求める意味と、その納得度の値によって選択肢が変わってくる。

従って、生き方の良し悪しは、一概には言えるものではないのだろう。

ただ、自分が信じようと思ったことが信じるに足ることであるかどうか、信じようと思った人が信じるに足る人であるかどうか。

その判断力は、経験を通して、意味を考えてみて、初めて養われていくものである。

若い時の苦労を買ってでもしないと、自分の目は確かであると、自分を信じるようになれない。と、いうことなのだろう。

 

 

「ボンちゃん。自分を真から信じられるようになった時には、悩む力が養われた時なのかもね」

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

2008.10.01

王女 クルム・ヨシオ

中目黒にある、ぎゃらりー和樂の目の前に、一本のグレープフルーツの木がある。

そこで育っていた青虫が、ついに羽化した。

アゲハチョウは、長い眠りから覚めたばかりの、王女様に見えた。Cho1

 

 

 

青虫は、ある日を境に、突然に空を飛ぶ。

それは人間には到底出来ない、神通業。

王女様は、自らの体の変化を確かめるように、そっと羽を閉じたり開いたりしている。

暫くすると、長い手足を持て余すようにぎこちなく歩き出した。

枝の先端まで移動し、ついに空に羽ばたいた!

と、思ったら離陸失敗。

寒いから思うように羽が動かないのか、飛ぶことに慣れるまで少し時間がかかるのか、それとも、急に世界がひらけてびっくりしたのだろうか…。

アスファルトへの着地は成功したから、羽を傷めることはなかった。

後ろ髪を引かれつつも、ヨチヨチしている王女様をそのままに、和樂に戻った。

「王女様が“クルム”と名乗ってきた」と言う私に、「ヨシオです」と、和樂店守が言う。

それで、クルム・ヨシオという名になったのだが、王女様は名を気に入ってくれただろうか…。

とても気になるところである。

もう一度見た時、王女、クルム・ヨシオの姿はなかった。

 

「ボンちゃん。どこのプリンセスだろうね?」

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

|

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »