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2009年12月

2009.12.31

幸せを掴むカギ

2009年の大晦日の夜、

幸せを掴むカギについて考えてみた。

それは、芸者ぼたんの生き方にあるように思うのだ。

一昨日、昨日と、

連日して寅さん映画を観たせいか、

男はつらいよのテーマソングが、頭の中で無音のBGMとなっている。

第17作『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』(1976)のマドンナ、

芸者のぼたん(大地喜和子)は、

悪い男に騙され泣き寝入りせざるを得ないことになる。

が、その件に関して、

寅さん、とらや一同、たこ社長が一緒になって悔しがり、

自分のことのように腹を立てて何とかしてくれようとする姿に感動し、

自分は幸せだ、もう200万円なんかいらない、

と、すぱっと気持ちを切り替えるのだ。

この切り替えこそが、幸せを掴むカギだと思うのである。

結果的に、ぼたんには予期せぬ形で、

その金額、いやそれ以上に相当するものが手に届くことになる。

 

人生には、時に、やるせないことがあるが、

そんな時は、負けるが勝ちで、

気持ちを切り替えることが、運気を好転させること。

幸せを掴むカギであると、

ぼたんの生きる姿勢を通して、

山田洋次監督は教えてくれているように思うのだった。 

 

  

「ボンちゃん。ゴリラも気持ちの切り替えは苦手?」

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2009.12.30

寅さんはつらくない!

寅さんファンには必見情報だと思うので、お知らせを。

2009年12月26日~2010年1月1日

早稲田松竹映画劇場(TEL 03-3200-8968 新宿区高田馬場1-5-16)にて、リリー篇、3本立が上映されている。

男はつらいよ 寅次郎忘れな草(1973年)

男はつらいよ 寅次郎相合い傘(1975年)

男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(1980年)

 

3本立てを観終えた時は、“眼はつらいよ”という状態だったが、

寅さんが健在であることに、なぜか安心感を覚える私なのだった。

ただ、リリー篇を3本連続して観た事で新たなる見方が生まれた。

『男はつらいよ』というタイトルの寅さん映画だが、

冷静に考えれば、

寅さんの人生はつらいどころか、常に柴又の愛に包まれている。

それに比べてリリーはというと、

天涯孤独の身の上で、さ迷い歩くアブクのような人生で、

寅さんはというと、

柴又に愛の巣がある身の上で、気ままに旅するアブクのような人生。

考えてみれば、

寅さん映画に出てくるマドンナ達は、孤独に疲れている。

そこで寅さんに出逢い、とらや一家に出逢い、

人の愛に癒され元気を取り戻し巣立っていくのが話の常なのだ。

言ってみれば、『女はつらいよ』。

山田洋次監督はなぜ、

この映画のタイトルを『男はつらいよ』とつけたのだろうか、

と、素朴な思いを抱えたのだった。

 

 

  

「ボンちゃん。ゴリラはつらいよ?」

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2009.12.29

寅さん 第17作

ついに寅さんが、ふら~と、我が家にやって来た!

「たとえ、叶える術(すべ)がその時に分らなくても、信じてその時の最善を尽くして、その実現を心から願い続けていれば、叶う」

というのが私の人生哲学なのだが、

今夜、その願いがひとつ叶って、深い感慨にひたっている。

何のことかというと、

気が利く友人がサプライズで寅さんのDVDを借りてきてくれたのだ。

48作中、私が一番好きな第17作『寅次郎夕焼け小焼け』(1976)を。

 

最近は寅さん映画が全くTVで放映されないのが現状である。

ここのところ、ホームシックならぬ寅さんシックになってきていて、

通りがかりにあるTSUTAYAに入っては、寅さんを眺めていた。

よほど借りようかと思ったのだが、

寅さんは、ふらりとやってくる人。というのが私の信条。

自分で借りるということは、寅さんふらりの自作自演のようで、

なんとも悲しいから、借りずに我慢していたのだ。

 

第17作は、信念を貫き通す寅さん(渥美清)の姿、生き方に、

恋せずにはいられない。

芸者ぼたん(大地喜和子)との出逢いによって、

人情至上主義の寅さんが、

芸術至上主義の青観画伯(宇野重吉)に向かって説教をするのだ。

芸術家が芸術を生む目的とは何かを、

寅さんが日本画壇を代表する池ノ内青観画伯に考えさせるのである。

寅さん映画はメッセージの宝庫。

たとえ今、自分の思うように事が運ばなくても、

自分を信じて前向きに生きていれば、

いつか理解者に出逢える。

お天道様はちゃんと、見ているから、

安心して生きていなよ。

寅さんの笑顔からは、

そんなメッセーシが伝わってくるのだ。 

  

「ボンちゃん。ゴリラも情至上主義じゃない?」

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2009.12.28

1969年 ライオンの話

クリスチャンという名のライオンの話を知っているだろうか?

『ライオンのクリスチャン』(アンソニー・バーク 著 ジョン・レンダル 著 西竹 徹 訳 早川書房 版)
という本を本屋さんで偶然に見つけて知ったのだが、

これが感動なのだ。

話はさかのぼること1969年、ロンドンでの実話。

百貨店で売られていたライオンの赤ちゃんを買い、

クリスチャンと名づけて飼った二人の男たちがいた。

クリスチャは非常に頭がよくユーモアもあり二人に懐き、

元気に成長して1年後には80kgになった。

これ以上は飼えないと判断した二人は、

クリスチャンをアフリカの自然に帰すことを決めた。

数年後に再会を果たすことになるのだが、

クリスチャンは二人のことをしっかりと覚えていた。

何度も何度も飛びついて親愛の情をあらわしたのだった。

その時の映像がYou Tubeにあがってる。

http://www.youtube.com/watch?v=I4S3lk6mS2c

なんど見ても、涙が頬を伝う。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラも心を許した人は、決して忘れないんだよね」

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2009.12.27

スーザンの魂

スーザン・ボイルのCDとともに2009年末を生きてる私なのだが、

心が傷ついても、

心が不器用でも、

みんなと同じように上手く生きられなくても、

心で泣いて笑顔を見せて、

希望を失わずに、

勇気を持って、

自分を信じ貫いた女性。

それがスーザンなのだろうと、

その魂を感じる。

澄み切った魔力をもつような独創的な歌声は、

普通ではないと思っていたのだが、

ある記事を読み、理由がわかった気がした。

スーザンの魂は、

小さい頃からずっと、

涙で濡れていたからなのだろう。

 

週刊新潮の最新号掲載の記事に、

スーザンの幼少期の辛い過去が載っている。

スーザンのお母様は、2007年に他界され、

スーザンは歌で世の中に出て行くと最後まで信じていたという。

それがきっかけで今年4月に、イギリスの人気オーディション番組、

「ブリテンズ・ゴッド・タレント」に出場する気になったのだという。

2009年の夜、

紅白でスーザンの声が日本中に響き渡ると思うと、

今から涙が溢れてくる私なのだった。

 

「ボンちゃん。一緒にスーザン応援しようね」

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2009.12.26

Buonanotte Fiorellino

音楽を聴くと、人はなぜ過去を思い出すのだろう。

今日、ふと、ある曲を思い出したら12年前の記憶が蘇ってきた。

友人が口ずさんだことで知った曲なのだが、

聴いた時に、

消えないぬくもりと消えない愛のようなものを、

強く感じたのをはっきりと覚えている。

 

イタリアの子守唄のような歌だと友人は言っていた。

それで、てっきり子守唄だと信じ込んだ私は、

いつの時代の歌かも、

誰が作詞作曲した歌かも調べずに、

12年が過ぎていたのだが、

つい最近、

深い事が判明したのである。

 

曲は、イタリアのシンガーソングライター、Francesco De Gregoriの、

”Buonanotte Fiorellino(小さな花よ、おやすみなさい)”(1973年)だった。

 

Francesco De Gregoriが、

飛行機事故で他界した恋人を想ってつくった歌なのだという。

人は、魂を感じる生きものなのだろう。

当時の私は、

イタリア語の歌詞の意味はよく分らなかったが、

あの曲に、

強い思い、強い愛、Francesco De Gregoriの魂を感じたのだから。

(※Francesco De Gregori  Buonanotte Fiorellino

と入力すれば、Youtubeで聴く事ができます)

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは、眼差しに愛を感じるの?」

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2009.12.25

メリークリスマス!

Gorilla4_6

 

 

  

 

  

 

 

 

明日になれば、

クリスマスなどなかったかのように、

街は、

寅、虎、とら、トラ、TORA、Tora、

と、

一夜にしてお正月色になるのだから、

おもしろいなあ。

「ボンちゃん。メリークリスマス!」

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2009.12.24

ムイミマン

今日は1+1=について考えた。

人間同士というのは、

1+1=2 だったり、

さびしいかな、

1+1=0になって、なんだか全てが無意味に思えてきたり、

でもたまに、

1+1=100なんかに遭遇して嬉しくなったりもする。

いつもいつも1+1=100ならいいのに、

なぜかそうは行かないのがこの世の常で、

時に、

1+1=-100になったり、1+1=-1000になったりもする。

すると、

心にムイミマンが現れ、

陰気臭くて閉鎖的な声で囁く。

すると、全てのことが面倒くさくなって、

無意味に思えてくる。

確かに言ってみれば、全てのことは面倒なことだし、

全てのことは無意味なようなことなのかもしれない。

ばかばかしい。と、思い始める。

しかし、

そんな時に、寅さんの口癖が、ふと思い出されるのだ。

「それを言っちゃぁー、おしまいよ」、と。

そうだ、無意味だと考えたら、おしまいなのだよ。

だから、

たとえ1+1=-1000になっても、1+1=-10000になっても、

無意味だと思ったら最後、

ムイミマンの策略どおり。

車寅次郎は、

ムイミマンを撃退できる数少ない人物だと思う。

もし、ムイミマンが心に現れたら、

映画『男はつらいよ』、観てみて!

 

「ボンちゃん。ゴリラ同士も、1+1=0になったりする?」

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2009.12.23

信頼が引き金

オペラ『オテロ』を観ていたら、

イタリアの謎な格言に対する、また新たなる解釈が生まれたのだ。

一度、玉ログ記事『ミラノの風』(2008/12/20)で紹介した↓格言、

Fidarsi e` bene, ma non fidarsi e` meglio.

=信頼は良いことである、が、信頼しないのはより良い。

 

人というのは、信頼を裏切るから、人を信頼しない方がいい。

そんな風に解釈するには、あまりにも単純だと思って、

深い解釈を長年に亘って探りを入れている格言である。

2008年12月20日に見つけた解釈は以下の通りだった。

「信頼」という原理というか法則は誠に良い。

だから信頼に値する行動をするのはいいが、

他者を信頼する際には注意がいる。

なぜならば、他者にも色々事情があって、

信頼に答えたくとも、そうもいかないことがある。

そのあたりを考慮し、理解し、寛大に接することが必要だ。

従って、“他者には寛大でいること”

そんな解釈に至った。

が、

偶然にも一年経過したら、新たなる解釈が生まれたのだ。

今回はオテロがきっかけだった。

原作:シェイクスピア著『オテロ』
作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ 1880-86年
初演:1887年2月5日、スカラ座(ミラノ)

登場人物
オテロ(ムーア人、ヴェネツィア共和国の将軍)・プラシド・ドミンゴ(テノール)
デズデーモナ(オテロの妻)・・・・・・・・・・バルバラ・フリットーリ(ソプラノ)
ヤーゴ(旗手)・・・・・・・・・・・・・・・・・・レオ・ヌッチ(バリトン)
指揮:リッカルド・ムーティ、演出:グレアム・ヴィック

ミラノ・スカラ座 2001年12月 ライヴ収録 

十五世紀末のキプロス島、海に面した町での物語り。

部下のヤーゴの嘘を信じた大将オテロは、

我が美しき愛する妻が若い男と不貞をはたらいていると信じ込む。

それまで優しかった夫オテロの態度は突如激変し、

何も知らずに訳が分からない妻は唖然としながらも、

根も葉もない話だと訴えるのだが、

嫉妬に狂うオテロの怒りは頂点に達して妻を殺めてしまう。

ヤーゴに騙されていた事実を知ったオテロは自ら命を絶つという話。

 

老いの萌芽を感じる歳に至ったオテロは、

若く美しい男との妻の不貞を疑い嫉妬の炎に燃え尽きるに至ってしまった。

その根底には、

老いに対してのコンプレックス、

若さや美しさに対するコンプレックスがあるのだろうと思う。

こういったことが原因の嫉妬妄想ほど悲劇を生むことはない、

と、観ていて恐ろしくなったのだが、

それと同時に、

Fidarsi e` bene, ma non fidarsi e` meglio.

=信頼は良いことである、が、信頼しないのはより良い。

が、思い出された。

ヤーゴの言葉を信頼せず、妻の言葉を信頼していれば良かったのだが、

人は間違う生きものだから間違えは避けられないわけで、致し方ない。

従って、オテロが誰の言葉も信頼しなければ、

こんな悲劇を生むことはなかったと思うのだった。

以上のことから、、

“信頼することは、身を滅ぼす引き金にもなり得る”

そんな解釈に至ったのである。

 

「ボンちゃん。ゴリラも嫉妬で悲劇を生む?」 

 

 

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2009.12.22

虎年な映画

イタリア映画『人生は、奇跡の詩(うた)』は、

2006年に上映されたロベルト・ベニーニ監督の映画である。

実はこのタイトル、イタリア語では『La Tigre E La Neve』=『虎と雪』なのだ。

それもあって、虎年な映画かな、と思ったわけなのだが、

お正月のDVD鑑賞にお薦めしたい理由はそればかりではない。

映画『ライフ・イズ・ビュティフル』を描いたロベルト・ベニーニ監督ならではの、

深い愛がテーマとなっているからなのだ。

 

ロベルト・ベニーニ監督の映画には、

信じた愛は決して疑わないという信念が礎にあるような気がする。

愛を貫き通すことこそが我が信念、

そんな尊くも強い美学が伝わってくる。

 

ここ最近、ダンテに思いを馳せていたら、

この映画を、ふと思い出した。

ダンテとの重なりを確かめてみたくなって観てみると、やはりそうだと思った。

この映画をつくるにあたって、ロベルト・ベニーニ監督は、

政治と戦い貫こうとしたイタリアの詩人、ダンテの生き様や、

ダンテの長編叙事詩『神曲』に心を旅させているように感じる。

この物語、ロベルト・ベニーニ監督演じる主人公がアッティリオ。

詩集「虎と雪」で有名になった詩人である。

アッティリオは愛するヴィットリアの看病に丸腰で戦地に行き、

どんな時も前向きさを失わず、現実に立ち向う。

アッティリオは純粋なのだが自己中心的な行動も多く、

なかなかヘンテコリンな性格をしている。

愛する者に心奪われていながら肉欲にも負けるアッティリオ。

ロベルト・ベニーニ監督は、

戦争は何を人々にもたらすかを身近に感じさせ、

政治の影響、あり方を問うてもいる。

そして人間存在の愚かさ、儚さ、

それでも愛を信じて行動することは強さを生む。

月や星を見上げ、生きることの素晴らしさを感じるようになる。

そんなメッセージが、深いぬくもりをくれる。

 

『人生は、奇跡の詩(うた)』は、

ロベルト・ベニーニの『神曲』に値する映画である気がしてきた。 

幸せは、信じることでしか訪れない。

何よりも大切なことを教えてくれているこの映画は、

生きる勇気の光炎となると思う。

2010年元旦、

虎年な映画を観て、

虎と化して日の出に向かって雄叫びをあげるってのは、どうかしら? 

 

 

「ボンちゃん。ゴリラの愛は、愛を貫き通すという美学に則っている?」

 

 

 

 

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2009.12.21

ダンテの愛

ダンテの『神曲』を読みつつ、

ダンテにとって、『神曲』とは何なのだろう、と考えていた。

ダンテとベアトリーチェのことは、

玉ログ記事「作家の属する世界」(2009/12/17)で少しふれたが、

もう少し詳しく記してみよう。

9歳のダンテは、ベアトリーチェをひと目見て恋に落ちる、

というか、その瞬間に愛に落ちたのかもしれない。

家柄の違いが告白を留めたのか、

ダンテは自分の気持ちを一度も告げていない。

ベアトリーチェはダンテの愛の深さなど知る由もなく結婚し、

ダンテも別の女性と結婚をしている。

ベアトリーチェは24歳で他界してしまうのだが、

ダンテのベアトリーチェへの思いは続く。

その究極なプラトニックな愛を生涯に亘って抱き続け、

いつしか崇高極まりない聖なる愛となり、

ダンテにとって、

ベアトリーチェは満天を輝く星のような存在になったのではなだろうか。

と、私は考えるのだ。

なぜそう思うかというと、

『神曲』が、叙事詩と言えども詩であることと、

『神曲』の地獄篇、煉獄篇、天国篇の全ての最終章が、

STELLA(イタリア語で「星」の意)という語を置いているからなのだ。

そして、STELLAの語は、TE(イタリア語で「君」)を内包している。

 

政敵に断罪、追放された後に故郷のフィレンツェを離れ、

ダンテは『神曲』を書いている。

そのことから考えると、

政敵に断罪された後も政治と戦い貫こうとする信念は変わらず、

ペンは剣よりも強し。

として叙事詩へと変わる。

それに加え、自らの不甲斐無さ

(ベアトリーチェへの愛で自らの魂が震えながらも、

他の女性と結ばれたという事実)に戸惑ったダンテの魂は、

愚かなことをしでかしてしまう人間の存在性に着目し、

人間とはいかに愚かであるかを綴り、

欲に溺れる人間存在の不甲斐無さを語ることで、

魂と折り合いをつけようとしたのではないか。

 

ダンテの美意識をもって、

自らの魂をさらけ出してまでベアトリーチェへの愛を形にしたかった、

叙事詩と叙情詩の合わさった、

愛の叫びなのではないかと、

そんなことを思うのだった。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラもプラトニックな愛の方が、崇高さが増す?」

 

 

 

 

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2009.12.20

カステルッチ 神曲‐煉獄篇

ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ 演出:ロメオ・カステルッチの舞台、

神曲‐地獄篇に引き続き、煉獄篇を観てきた。

まず、煉獄とは何かを明らかにしておこう。

煉獄とはカトリックの教理で、この世で小さい罪を犯した者が、死者となった際、罪の浄化を受ける場所、その状態をさすという。

霊魂が天国へ入国する際の、魂を洗い清める儀式といった感じ。

カステルッチの舞台、煉獄篇は準R16指定だったこともあって、

陰に過激に心に迫るという印象を受けた。

ストーリー性においては評価が分かれるところだと思われるが、

音響、色彩、照明などは優れて効果的で、

見ていたら魂が揺さぶられているような感覚を覚えた。

カステルッチの煉獄篇では、

霊魂が浄化される場面において、

罪を犯した人が、グルグルゴロゴロ回っていることを見せることで、ただ今、魂浄化中という形式をとっている。

もちろん美的に表現しているからそれとは気付かない人も多いと思うが、本質的には洗濯機がランドリーで回っていることと同じように思えた。

罪を犯した人物の霊魂が、洗濯物。

その洗濯物(霊魂)が煉獄(ランドリー)でゴロゴロと回り、

洗濯(霊魂の浄化)されているという感じである。

ランドリーの中でグルグルまわる洗濯物を、

つい目で追うことはないだろうか。

人は物が続いて回る様を見ていると、

心に抱える何かが引き出されていくような、

自然にそれに巻き込まれていくような感覚に陥るのかもしれない。

回る様を見る行為が、魂の洗濯作用を促すことになるとしたら…、

思えば、

パチンコも玉がグルグル、回るではないか。

その魅力は、グルグル回るものを見ることで、

魂の洗濯効果が働き、一種の忘我の境に入る。

ある意味では、パチンコは煉獄的な行為に似ているというか、

魂の洗濯のような作用が起きる場所とも考えられるのかもしれない。

 

「ボンちゃん。ゴリラは、何を見ていると魂が洗濯される気がする?」

 

 

 

 

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2009.12.19

トリエステ

イタリアの北東部にトリエステという街がある。 

日本在住、トリエステ出身のイタリア人の知人が、冬は、北東、バルカン半島から、もの凄く強い寒い風、ボーラ(Bora)が吹くと言っていた。

市街地の歩道には、風のための手すりのロープがあるのだという。

 

昨日紹介した映画「やればできるさ」に関する話をしようと思う。

イタリアの精神保健改革の模範例となったのがトリエステである。

「自由こそ治療だ」と唱えた、トリエステの病院に赴任した精神科医、フランコ・バザーリア(1924-1980)の運動によって、

精神病棟を廃止する法律(180号法)が制定され、

1998年にはイタリアにある全ての精神病院が閉鎖に至ったのである。

その後、患者は入院医療から地域中心型精神医療サービス(通院、グループホーム、自宅)でのケアになったという。

精神医療の変革に向かっている最中の、

精神病院の様子が描かれているのが、

映画「やればできるさ」なのである。

 

狂気の沙汰という言葉があるように、

誰もが狂気を抱えているのが人間だと思う。

考えさせられる点の多い映画だと思う。

 

「ボンちゃん。ゴリラも心に狂気を抱えている?」 

 

 

 

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2009.12.18

「カッコー…」イタリア版

海外の精神病院の現実を知るべく、小説「カッコーの巣の上で」(著者、ケン・ケーシー)を読んでみた。

これは、州立精神病院を舞台に、患者の自由、意志の尊重、人間の尊厳が描かれたストーリー。主演、ジャック・ニコルソンにより1975年に映画化されている。

「カッコーの巣の上で」の続編のような、イタリア版とも思える映画を観たので、お知らせをと思った。

「やればできるさ」原題:Si puo fare 

(2008年/111分) 監督:ジュリオ・マンフレドニア

1980年代、精神病院の全廃への活動が起きている頃のミラノが舞台となっている。

精神病とは、見方を変えれば、ある種の天才的な才能である。イタリアは、そのことを個性と捉えようとする発想に基づき、精神病院の全廃に動いた国なのである。

今の日本の精神医療現場には、まだまだ見られない発想ではないだろうか。

「やればできるさ」このタイトル自体からも、大きなメッセージを感じる。

日本でも一般上映される日が訪れるのを祈りつつ、

筆をおくことにする。あれ、パソコンを閉じると書くのかな? 

 

「ボンちゃん。ゴリラも、決めつけられるのは、嫌だよね」 

 

 

 

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2009.12.17

作家の属する世界

そういえば、ダンテも肉親縁が薄いことに気付いた。

ダンテは、5歳の時に実母と死別する。

父が再婚して弟妹が生まれるが、18歳の時に父と死別する。

その後、文学、政治活動、政敵に断罪、追放、故郷のフィレンツェを離れ、ラヴェンナで没する。

「神曲」と言えばダンテ。

全1万4233行からなる長編叙事詩、イタリアの詩人、ダンテの代表作品。

ベアトリーチェへの憧れを通して生まれた、高次元な愛の理念なしには成り立たないのがこの作品である。

驚くことに、ダンテがベアトリーチェに会ったのは、9歳なのだ。(実際には見ただけと言われている)

と、以下の記事を読んでいたら思い出した。

ノーベル文学賞受賞した、大江健三郎氏(受賞年1994年)とJ=M・G・ル・クレジオ氏(受賞年2008年)の対談記事、読売新聞(12/16/2009)に次のような一説があった。

クレジオ「あなたの持論通り、作家は出発点からすべてが与えられており、あとは少々変化をつけて繰り返すに過ぎない。フラナリー・コナーも5~10歳の間にすべてが決まると言った」

クレジオ「作家は至る所に属するし、どこにも属さないと感じる種族だ。作家が唯一属する世界は子供時代、少年時代につながる世界だ」

 

 

従って、ダンテも子供時代という世界に属していることが窺える。

作品「神曲」の命は、ダンテが9歳の時に生まれたものだったのだろう。

「ボンちゃん。ゴリラには哀愁を感じるから、小説を書いたらノーベル文学賞総なめだろうね」 

 

 

 

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2009.12.16

マフィア映画

『ゴッドファーサ-』を知る人は多いが、

イタリアのマフィアの実態や他の映画を知る人は恐らく少ないだろう。

私も知らなかったので、ちょっと勉強してみることにした。

以下は、イタリアの社会問題に詳しいイタリア人の勧める映画である。

『教授と呼ばれた男』Il Camorrista(伊)

 1985年 ジュゼッペ・トルナトーレ監督の第一作目

『ゴモッラ』Gomorra(伊)  

 Gomorraの邦訳著:死都ゴモラ、著者ロベルト・サビアーノ(伊)の映画化。マッテオ・ガローネ監督。2008年 カンヌ・グランプリ  

『ペッピーノの百歩』(伊)

『Fortapasc』(伊)

ゴモッラだけはまだ観ていないが、衝撃的で目を覆いたくなるシーンが多く、観ていて辛い。

同時に、重い悲しみが押し寄せてくる。

が、イタリアのマフィア問題の全体像は浮かび上がってくる。

 

『Fortapasc』(監督 Marco Risi 2008年)は、

今年イタリアでDVD化されたばかりなので、まだ日本語版は無いかと思われるが、これらの映画を観れば、マフィアが社会構造に組み込まれてしまっていることが伝わってくる。

『Fortapasc』は、1985年のナポリでの実話の映画化。

ナポリの犯罪組織と癒着する政界、その真実を伝えようと、

信念を持って生きたジャーナリスト、ジャンカルロ・シアニの一生が描かれている。

彼が生存していたならば今年で50歳になる。

それを期に、ジャンカルロ・シアニに捧ぐ思いから制作されたという。

映画の中の一曲、ヴァスコ ロッシの『Ogni Volta(オンニ ヴォルタ)』

これもお聞き逃しないように。 

ファッションのミラノ、芸術のフェレンツェという印象が強いイタリアだが、

実際の社会の姿は、深刻で根深い問題を抱えているようである。

 

「ボンちゃん。ゴリラも、亡き友に思いを馳せる?」

 

 

 

 

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2009.12.15

ああ、ご老公

昨日、玉ログを書き終えた時、ふとあの歌…、

♪人生 楽ありゃ苦もあるさ♪が思い出された。

「ああ人生に涙あり(テレビドラマ「水戸黄門」主題歌)」である。

山上路夫 作詞. 木下忠司 作曲

水戸黄門と言えば、ご老公。葵の御紋の印籠。

そしてあの主題歌が思い出される。

これはまさに地獄を生きる心構えであり、

応援歌であることに歌詞を見て気付いた。

実際の歌詞は記載できないと思うので、

実際の歌詞に併せて私なりの解釈を書いてみようと思う。

 

人生とは、天国と地獄を感じる場所なんだよ
でも地獄を感じた後には虹も出るんだよ  
だから歩き続けることだよ しっかりと
自分の道をふみしめていこうよ

人生は 勇気が必要なんだよ
くじけたら誰かが先に行くよね?
あとから来たのにさ
追い越されていくし
でも泣くのがいやだったら歩くしかないんだよ

人生には 涙と笑顔がある
だからそんなに悪くはないものだと思うよ
なんにもしないで生きるよりはずっと
何かを求めて生きようよ

 

人間が生きること、生きる場所、

それは地獄と言えるのかもしれない。

しかし、そこには、虹、涙、笑顔というような、かけがえのないものがある。

そのかけがえのないものを得られる地獄に、

居合わることができたのだから、

勇気をもって、自分の道をあるいてみよう。

そんなメッセージをのせて、

勇気という名の薬の入った印籠を見せている。

そして名曲「ああ人生に涙あり」によって、

ご老公の思いを庶民である我々に、

わかり易く言葉に変えて理解させてくれている。

なるほど、さすがご老公!奥が深い!

と、神曲「地獄篇」を見たことで、

今さらながらに、

ご老公の偉大さに気付き、感動している私なのだった。

 

「ボンちゃん。哲学者のように見えるゴリラは、やっぱり生きるとは何か、を考えたりしているの?」

 

 

 

 

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2009.12.14

地獄と天国

イタリアの鬼才と評される演出家、ロメオ・カステルッチの、「神曲」3部作の舞台が今、東京で上演されている。

舞台「地獄篇」では、現実の世界、人間関係の中に地獄があると、彼の考える地獄を、ほとんど言葉を発せず、刺激的なイメージの世界として表現している。

今日、ロメオ・カステルッチの講演があったので参加してきたのだが、寡黙で素朴で気さくで心優しそうな人という印象を受けた。

そこで、私の地獄と天国についてのイメージに思いを馳せてみた。 

 

私の考える地獄とは、

人は精神的な存在でありながら、未完成な生きものとして生まれているということなのかなあと思う。

人間が人間である以上、

誰かを求める。誰かを傷つける。傷つけてしまったと気付く。傷つけれらたと感じる。求めるのはやめようと思う。それでもまた求める。傷つけないようにしようと思う。それでもまた傷つける。求める。傷つく・・・・・・・。これこそが蟻地獄のような地獄。

なぜならば人間は未完成な存在として生まれているから。

と、そこに気付いてしまうこと自体も、地獄。

人は人と共感したいと思う。

が、人は人と完璧に共感するこはできない存在である。

例えば、最愛の人が腹痛で苦しんでいるとする。他者は、その苦しみを想像し、少しでも軽減させてあげたいと思うが、同じ苦しみ、痛みを共感することはできない。

友人の命の灯火が、消えようとしていたとする。そんな事態をを全く知らずにいる友は、どこかで笑っていたりする。

自分にとって喜ばしいことが、他者も同じ感情を得るとは限らない。

例えば、最愛の人が喜ぶだろうと思ってしたことが、最愛の人が喜んでいるとは限らない。 

ということで、地獄は、死後の世界に存在するのではなく(死後の世界にも異なる地獄があるのかもしれないが・・・)、自分自身の中に地獄だと思う感情を得ていることであり、現実の世界にあるのではないかと。

もう一つの考えは、

悲しいと思った瞬間が地獄であり、

嬉しいと思った瞬間が天国である。

そうとも考えられるような気がする。

但し、嬉しいという感情、その天国は、必ずしも善ではない。

アルコールを飲んで楽しいとする。この時は天国だが、飲みすぎて、翌日は地獄といった具合に。薬物使用者にとって、使用時は天国なのかもしれないが、その後の心身への影響、社会への影響は地獄といった具合に。

 

忘年会は飲みすぎに注意してね、

ということでしめることにしよう。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラにとっての天国は森で、地獄は…、森ではないところに生きているということに、やっぱりなっちゃう?」

 

 

 

 

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2009.12.13

カステルッチ 神曲‐地獄篇

ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ 演出:ロメオ・カステルッチの舞台、

神曲‐地獄篇・煉獄篇・天国篇があるというので、

まず地獄篇を観てきたのだが、現代アートの舞台版という感じだった。

あの舞台は、

絵や自然を見る時と同じような気持ちで、

舞台の上の魂の集合体を感じるようにしないと、

あるいみ不可解さの地獄王国で迷子になることになるだろう。

 

ほとんど言葉を発しないその舞台は、感じて汲み取るしかない。

人が人として生きる、その生活の中に地獄がある。 

人は人を求めずにいられないが、人を傷つけずにもいられない。

それを繰り返す存在。

それ自体に地獄を生む根源が内包されている。

そんなメッセージが伝わってきた。

 

この『地獄篇』は、

ロメオ・カステルッチが感じる地獄観であり、

地獄を生きつつ生まれた悲痛な叫びであり、発露である、

そんな気が私にはした。 

 

 

「ボンちゃん。ゴリラにとって、この世は地獄?天国?」

 

 

 

 

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2009.12.12

『ニュー・シネマ・パラダイス』

あなたに出逢えてよかった、

そんなふうに言われる人になれたら幸せだろうし、

そんなふうに思える人に出逢えたら幸せだろうと思う。

 

映画『Nuovo cinema Paradiso(ニュー・シネマ・パラダイス)』は、

私がそんなふうに感じた存在である。

親友、『ニュー・シネマ・パラダイス』に捧ぐ詩をつくってみた。

 

『 ニュー・シネマ・パラダイス』

あなたを知らずに 生きていた頃 

わたしの心は

すべての色を拒絶していた 

あなたを知った その日から

わたしの心は

どんな色も拒絶しなくなった

未来のわたしの心は 色の多さに彷徨うだろう

それでも心は 忘れないだろう

あなたに出逢えたという色を

 

 

「ボンちゃん。ゴリラの心は、どんな色は忘れない?」

 

 

 

 

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2009.12.11

猫のように。

猫の魅力は、

自分を信じきって生きているように見える、

そんな逞しさなのだろうか。

自由と孤独を我が物顔で謳歌しているような、

そんな愛すべき憧れなのだろうか。

 

街で野良を謳歌している猫達に会う度に思う。

まず、存在感が愛しい。

その上、立ち振る舞いが皆、美しくエレガントである。

猫の眼力は、人の心を簡単に虜にする。

一声ニャァーと鳴けば抱きしめて貰える。

カラダをなめるだけで奇麗でいられる。

(人間なんか、すぐに悪臭を放ち出すというのに)

働いている様子はないのに、食に困っている様子がない。

(猫好き人間がせっせと食事を運ぶ姿が多く見られる)

媚びずに、眠い時は昼寝し、素直に、気ままに、背伸びもせずに、自分のペースを大切に生きている。

声を出して笑っている姿は見たことはないが、

時々に遭遇することを楽しんでいるように見える。

充実感に満ち、心は安定しているように見える。

なぜなら幸せそうな寝顔をしている。

それに比べて人間は、

規則や拘束に縛られることを嫌いつつも、

突然に会社や集団という規律の集合である組織から拘束が解かれれば、今度は自由の重みに耐え切れずに、不安になって自己嫌悪にさえ陥ったりする。

 

優雅で逞しく見える野良猫にも、

我々には分からない種類の悩みがあるのだろうか。

足早に移動している時なんかは、

やはり約束という心の拘束に縛られていて、遅れないように努力しているのだろうか。

空(くう)を見つめ、明日の心配なんかをしているのだろうか。

 

逞しく、しなやかに、美しくあれたらと思う。

猫のように。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラも自由の重みを感じることって、ある?」

 

 

 

 

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2009.12.10

長靴的アモーレ

2005年のイタリア映画『イタリア的、恋愛マニュアル』を観た。

と言っても、三度目。

 

恋愛指南映画?と思いきや、哲学的な深いストーリーなのだ。

ストーリーは、軽いタッチで4つの愛の姿を描いているのだが、

『イタリア的、恋愛マニュアル』の根底にある「恋愛」感は、

どんなに熱く燃え上がった恋愛であっても、必ず冷める。

恋愛の道の先には避けては通れない倦怠、いばらの道がある。

「恋愛」とは、そういうものである。

と、悟った上で放たれているメッセージ゙性。

そのいばらの事実とどう向き合い、

どう乗り越えていくのか。

そこに選ぶべき道という正解はなく、

あがくしかないのだが、

その現実に心がボロボロになっても、

また一瞬にして恋に落ちる。

それがイタリア人という存在である、と。

そんなイタリア的愛の変遷を観ていると、

イタリア人のにおいが伝わってくるような気がする。

 

タイトルは『イタリア的、恋愛マニュアル』だが、

私なら、

『長靴的アモーレ』と、つけるかなあ、と、

観るたびにタイトルを考える私なのだった。

(注釈、イタリアの国は、長靴の形をしているので) 

 

「ボンちゃん。ゴリラの愛も、冷めるの?」

 

 

 

 

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2009.12.09

『孤独と孤独』

2008年、イタリアで最大のベストセラーとなった『素数たちの孤独』(パオロ・ジョルダーノ著,飯田 亮介訳,早川書房,2009)を読んだ。

タイトルの通り、孤独がそっくりそこにあった。

 

孤独にも色々あると思うが、

『素数たちの孤独』を読んで思い浮かんだ詩を書いてみた。

 

『孤独と孤独』

 

見えない孤独に 気づかずにいた頃

孤独の怖さを 知らずにいられた

悲しい偶然 重なった日に

見えない孤独が 見える孤独生んだ

 

見えない孤独 見える孤独 

ふたつの孤独が 心裂き破る

拒食 過食 自傷行為

孤独同士が せめぎ合う

 

見える孤独 見えない孤独

ふたつの孤独が 心けあげる

拒食 過食 自傷行為

孤独の痛みが 孤独を酔わす

 

孤独と孤独が 語らず語る

孤独と孤独は 目逸らし見ている

その遣る瀬無さに 血が青ざめる

ふたつの孤独が 震えてる

 

悲しい偶然 遭遇した時 心に孤独が姿あらわす 

悲しい偶然 遭遇してから ふたつの孤独がこっちをみてる

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは、孤独に見えるけど、寂しくはないの?」

 

 

 

 

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2009.12.08

離れがたい結びつき

今回、祖父のお墓美化計画を企てた。

題して、「お墓に眠るおじいちゃんを喜ばそう」企画

 

祖父の顔は、写真でしか知らない。

明治生まれにして、

麻のスーツにパナマ帽を被り、

子供のような無邪気な笑顔を浮かべながら、

奈良の鹿に鹿煎餅をあげている。

それが私の知る祖父の姿である。

 

実際に会ったことはないのに、

どんな時も私の味方で、

優しい深い眼差しを向けてくれていた、

そんな気がしてならない。

 

孫がおじいちゃんを喜ばそうと考えるのは自然の摂理と同じであるから、

褒められるようなことではないのだが、

お墓をピカピカに磨いて味わいある色の砂利を敷いたら、

墓地内住人の中で噂になり、おじいちゃんは鼻高々にチガイナイ。

だって、おじいちゃんはカッコイイのが好きだもの。

 

他界先にすむ多くの親友や、

他界先で出逢った人々に、

派手に孫の自慢話ができて嬉しいにチガイナイ。

だって、おじいちゃんは孫を抱っこしたことが、ないのだもの。

 

「いやー、感心なお孫さんですなー、うちの孫なんて、葬式以来、墓参りに来やしませんよ。小さい頃は、じじ、じじ公園行こう、って、私の手を引っぱり、可愛かったんでがねえ。それにしても、なんとも味わいがある砂利ですなー」

などと、となりの墓石在住者、鈴木家五代目に羨ましがられたりする。

すると、

目が蒲鉾型になった我が愛しのおじいちゃんは答えるだろう。

「私と会ったこともない孫が、汗びっしょりになって砂利を運んでいる姿を見ていたら、涙が込み上げてきて・・・」

感極まったおじいちゃんは言葉にならない…。

そして、私はお墓にキスをするのだった(心の中で)。

 

それにしても、

伊勢五郎太(そういう名前の、渋い味わいある砂利)40kgを、

スーツケースに入れて運ぶのは重かった。

 

その重みがそうさせるのか、

今、私は静かな達成感に浸っている。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは、この世を去った存在の魂を、感じる?」

 

 

 

 

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2009.12.07

奇跡の歌姫

Susan Boyleの歌声が空気に伝わると、

勇気と感動に心が震え、

涙が渇きを潤すのか、

命がしっとりとしてくる。

 

「あなたなら、未来に挑める

あなたには勇気があるもの

その勇気は、必ず、あなたを守る

さあ、もう泣くのはやめて

挑んでごらん」

 

そんなメッセージが、

ノスタルジックなヴェールな霧となって、

空から降りてくる。

 

Susan Boyleの1stアルバム(発売 2009/11/25)を買った時は、

「夢やぶれて」を歌って夢を叶えたスーザンの人生に乾杯だ!

そんな気持ちが強かった。

が、

イギリスのオーディション番組で歌った感動の一曲「 I Dreamed A Dream 」

とはまた違った魅力がCDには詰まっている。

CD13曲中、特に気に入っている曲名を記してみたい。

1番、「Wings To Fly~翼をください」(日本版ボーナス・トラック)

2番、「You'll See」

「Wings To Fly~翼をください」が流れ出すと、

私の上にある空は、

氷晶で光が反射、屈折する現象、

そう、まさに、

ダイヤモンドダストに変わる。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは、誰かの歌声で景色が変わることって、ある?」

 

 

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2009.12.06

サンタロス症候群

今日から、ブログを再開しようと思う。

約6ヶ月に及んだ沈黙期間中に、

私の心を最も揺さぶったのは、

あるサンタクロースの存在だった。

 

私は今まで、

「この人こそサンタクロースに違いない」と、

そんなふうに心がピクリとしたことはなかった。

それが、ある人物に出逢って生まれて初めてそう思ったのである。

その感覚は、

一目ぼれや恋愛などとは異なっていて、

何か特別な絶対的な安心感だった。

『34丁目の奇跡』のクリス・クリングルのような真心を持つ、完成したような人物は人間界にも存在する、と思ったぐらいだったから、

その感動たるや、凄かった。

私の嗅覚は冴え渡り、

サンタクロースのぬくもりを胸イッパイに吸い込んだ。

心は、際限なくその人物のイメージを美化していき、

終には本当にクリス・クリングルに見えてきた。

しかし、

次第に彼の様々な期待はずれな面が見えてきた。

やはりひとりの普通の人であることに気付き、

私の心が勝手に築きあげたイメージとは異なっていること、

いや、かけ離れている点にまで気づくという悲劇に直面することとなった。

その結果、

心は夢破れた気分で、

もの悲しい道を辿ることになってしまったのである。

その寂しさたるや、凄かった。

いま、唯一、サンタクロースに似ている点を挙げるならば、

おヒゲぐらいだろうか。

ペットロス症候群ならぬ、

サンタロス症候群は、

いまだに完治していない。

 

「ボンちゃん。ゴリラも、誰かを心で美化したりする?」

 

 

 

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