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2010年1月

2010.01.31

人間とトナカイ

トナカイと言えば、

多摩動物公園に、

マキという名のユニークな個性を持つトナカイがいるそうだ。

マキは、

角が成長する時期の9月から、いばりんぼうになり、

角がとれる春になると、しょんぼりした、じめられっ子になるらしい。

心がいじけ、隅に入り込んでしまうのは、

人間もトナカイも同じようである。

自分自身に自信を持つことに、根拠はいらないはずだが、

軽い荷物を持つようには、なかなか自信は持てない気もする。

 

そこであらためて問うてみたい。

自信とは、何か?

自分で自分の能力や価値を信じること。

と、辞書には書いてある。

 

自分の能力と価値を、単に信じるだけのことだと考えれば、

軽い荷物を持つのと、

自信を持つことは、

大差はないのかもしれない。

「ぼんちゃん。ゴリラも自分に自信を持ちにくかったりするの?」

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2010.01.30

赤鼻のトナカイ

好きな曲は、理由もなく、ふいに思い出すものである。

今日、「赤鼻のトナカイ」が頭の中でBGMになっていた。

この曲の英語版を初めて聞いたのは19歳だった。

その時、言い知れない感動を覚えたことを今でもよく覚えている。

 

日本語の歌い出しは、♪真っ赤なお鼻のトナカイさんは~♪
英  語の歌い出しは、♪Rudolf the red nose reindeer~♪

英語の歌詞を訳すと、♪ルドルフという名の赤い鼻のトナカイは~♪

と、歌う度にトナカイさんの名前が銘記されるのだ。

残念ながら、

日本語の歌詞には最後までルドルフという名はでてこない。

あれは、ルドルフの歌だというのに…。

なんでなの?!

 

 

「ボンちゃん。ゴリラも、名前で呼ばれたら嬉しい?」

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2010.01.29

鯛な鰻

頭から尾の一番長い処までの長さは16センチ。

今日、南部鉄の鯛焼き器が届くはず。

器量のいい鯛を見つけたから、注文しておいた。

宅急便のHPで荷物の居場所確認してみたところ、

現在、我が家に向かう車中にあるようだ。ニヒッ!

 

ランチは鯛焼きを持っていこう、と、あれこれ思いを巡らせている。

最近の流行はタピオカ粉を入れて作る、白い鯛焼きらしい。

小麦粉の生地をご飯に変え、

中身の具を鰻にしたら

鯛な鰻の焼きおにぎりが出来るだろう。

目で鯛。

味で鰻。

鯛な鰻で、長くめでたいのう!ハハッ!

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは、どんな時に、おめでたい気分になる?」

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2010.01.28

自分さん

けさ、お風呂に入りながら、こんな事を思った。

かけがえのない人、という表現がある。

あの人は私にとって、かけがえのない人だ、そんなふうによく使う。

 

よくよく考えてみれば、

自分にとって最もかけがえの無い人は、自分さんである。

自分さんが嗚咽していたら、

誰かを大切にすることは難しい。

目を酷使して何時間も続けてパソコンで作業していることや、

不規則な生活を自分さんに強いることは、

ものすごく自分さんを痛めつけている行為に当たるのだろう。

自分で自分さんを大切にできない人は、

誰かを大切にすることなんて到底無理な話なのかもしれない。

 

忘れないようにしたい。

自分さんあっての自分であるということを。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは自分さんを大切にしている?」

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2010.01.27

100年の恋

51年9ヶ月と4日、愛する者を待ち続けた男がいた。

1982年度のノーベル文学賞作家、Marquez,Gabriel Garcia(G・ガルシア=マルケス)の、

『コレラの時代の愛』 訳:木村 榮一新潮社,1985年、を読んだ。

プラトニックな愛だからこそ、心はその愛を強く求め続けるのだろう。

どちらかというと、

肉体的欲求が叶った愛は、悲しい運命を辿る傾向があるように思う。

この間、結婚をテーマに知人と話したのだが、

賭と妥協。それが結婚であると彼は言った。

考えてみればそうである。

 

まず、妥協無しには、結婚は破綻する。

よく知らない者同士が愛し合い、

それ程よく知らないのに結婚し、

日ごとに、相手の情報が増え、相手を知っていくことになる。

結婚とは、無謀な賭であり、忍耐への飽くなき戦いであり、

心を理想と現実の狭間に揺らす、終わりなきアトラクションなのだろう。

 

愛が叶った瞬間から、

100年の恋が冷めるリスクを背負うのだから…。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラの愛も、人間の愛と似ているの?」

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2010.01.26

府に落ちないなあ…。

あったらいいなあー、と思っているものが3点ある。

しかし、今ひとつ腑に落ちないことがいくつかあるのだ。

  

1,King Jimのデジタルメモ、ポメラDM20  \29,800円

 これは、PCより軽量で、外出先でピコピコ文章が書けて、

 いいと思うが、文章しか書けないわりに、なぜか価格がお高い。

  

2,シャープ電子辞書 SR-G6000M \22,800+別売りイタリア語コンテンツ 

 ポメラと比べると、膨大の量の情報、コンテンツが入っている。

 価格は良心的であるが、購入時に必要なコンテンツをユーザーがチョイスできるのが親切というものだと思う。

 いつだってマイナーな言語学習者は、当然のように別売りコンテンツの購入を勧められる。これはいかがなものかと思うのである。

 それに、 電子辞書+メモ機能+折り畳み式キーボートがついたモデルは、 なぜ、発売されないのだろうか?

  

 3,南部鉄器の鯛焼き器 \5,250~\10,000円程度

 ネットが主たる購入手段。いくつか異なるメーカーの商品があるが、商品への愛が感じられない。なぜかというと、鯛の顔がよく認識出来ない写真が多いのだ。

 

 おめでたい、鯛だもの。

 鯛の顔つき、鱗の模様、姿にはこだわりを持ちたい。

 と、切に願うのは、私だけだろうか…。

 

 

「ボンちゃん。南部鉄器のゴリラ焼き器、特注でつくってもらおうか?」

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2010.01.25

カボチャの種

何千というカボチャの種を今までに捨ててきてしまったのだろう。

そう思うと、自らの愚かさに、悔いた。

先日、スーパーでカボチャを買った。

家に帰り、いつものようにカボチャの種を捨てようとした時、

種が美味しそうに見えた。

翌日、カボチャの種は食べられるものかと、友人に聞いてみたところ、

「天日干しにして、フライパンに少し油を入れて煎り、塩を少々ふると美味しいって、おばあちゃんの知恵っていう本に書いてあったけど…」

という答えが返ってきた。

どこのおばあちゃんの知恵かは存じ上げないが、

私は知っている、

おばあちゃんの知恵は偉大だということを。

早速、カボチャの種を天日干しにしておいた。

そして今夜、

種をフライパンで煎り、少々のお塩をふり、

食べてみたのだが、

これが、なんとも美味しいのだ!

おばあちゃん、万歳!

 

「ボンちゃん。おばあちゃんゴリラの知恵は、やっぱり偉大?」

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2010.01.24

世界一ネギ豆腐炒め

小さい頃から、冷や奴は好きなのだが、

お豆腐自体に味がついたもの

特に、お味噌汁の中に入っているお豆腐がなぜか好きではない。

味の組み合わせが合わないように思うのだ。

私と同意見なのは、今は亡き祖母だった。

それがなぜだか、嬉しい。

 

それはそうと、美味しい豆腐料理を発見した。

世界一美味しく感じた、ネギ豆腐炒めである。

作り方は至って簡単。ご紹介しよう。

 

ネギ豆腐炒め

材料 (1人分)

焼き豆腐 1丁         ネギ 1~2本

人参 3分の1程度       椎茸 2~3ヶ

調味料

油少々、ごま油少々、蕎麦つゆ少々、塩少々、胡椒少々

 

人参は千切り、ネギは薬味よりやや厚め、椎茸は薄切りにする。

焼き豆腐は、2~3分茹で、ざるにあげる。

フライパンに油を入れ、野菜がしんなりするまで炒める。

そのフライパンに焼き豆腐を入れ、適当にほぐしながら炒める。

ごま油を少々、蕎麦つゆ、塩、胡椒で味をととのえる。

これで、できあがり!

美味しく作るポイントは、

焼き豆腐をそのまま炒めるのではなく、一度茹でることにある。

ボナペティート!

 

「ボンちゃん。ゴリラは、お豆腐好き?」

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2010.01.23

想像の羽、果てしなく

映画鑑賞を終える少し前まで、

私の中に描かれた『湖のほとりで』(La ragazza del lago)は、

全く異なる映画、『湖のほとりで』だった。

別の言い方をすれば、

1本の映画を観ながら、同時に2本の映画を観たような、

人間の想像の羽は果てしなく飛ぶものだ、

そんな不思議体験をした。

それと同時に、

感性の異なりは、解釈が180度違うこともあり得るということを、

改めて思い知らされた瞬間でもあった。

本当のストーリーは、他のページにゆだねるとして、

私の頭に描かれていた推理的な物語は、以下のようだった。

 

(これ以降は、この映画を観ていない人には、比較の対象がないので、分からない話になります)

犯人は、最初に行方不明になった女の子、小学生のマルタ。

マルタが犯行に及んだ理由を挙げよう。

マルタとアンナは大親友が前提。

アンナは余命が少ないことを知り、病気のせいで記憶が曖昧になってくる。尊厳死を望んだアンナは、湖で自殺をしようとしていた。

そこにマルタが偶然やってくる。

純粋なマルタは、アンナの悲しみをすべて受け止め、

アンナの魂を救いたいと思った。

そして自殺を幇助する形として殺人を犯すのだ。

それは親友を思うからこそ行った、愛の行為。

一方、

その事件の犯人を追っていた刑事には、アルツハイマーで記憶を亡くしていく妻がいる。

自分と、娘を見て分からない妻を抱え、

病によって自らの記憶を失うもの尊厳を考え、苦しんでいる。

マルタが犯人である可能性が高まるにつれ、

自殺幇助としての殺人を決意したマルタの気持ちを考えると、

容疑者となったマルタを捕まえることにやりきれなさを感じる。

愛する人を救うための自殺幇助的な愛、深いストーリー!

と、感動していた私は、

終盤になり、

え?この映画、全然違う話だったの?!

と、その結末に驚きを隠せなかったのだった。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは、先入観で思い違いしたり、会話が食い違ったりする?」

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2010.01.22

オペラチック

オペラ通のイタリア人との雑談は、まさにオペラチックに食い違ったのだった。

「『La ragazza del lago』(ラ ラガッツァ デル ラーゴ)観たんだけど、観た?」

と、何気ない雑談で映画の話を投げかけた時のことである。

※『La ragazza del lago』とは映画『湖のほとりで』のイタリア語の題名

すると知人は一瞬、不思議そうな顔をした。

そして、

「え?あー、『La donna del lago』(ラ ドンナ デル ラーゴ) でしょ?」という。

私は、一瞬言い間違えたかと思ったが、観てきたばかりの映画なのだから間違うはずもないと思い、もう一度言ってみた。

「え?『La ragazza del lago』(ラ ラガッツァ デル ラーゴ)だと思うんだけど・・・」と答えた。

すると彼はちょっと更に困惑気味になり、「オペラだよね?」と言う。

「違う違う、映画・・・」

そこで食い違いが判明したのだが、

彼の頭の中の引き出しの殆どはオペラ部門。

私の頭の中の引き出しの殆どはゴリラ部門?であり、オペラ部門は極々極わずかであるため、

『La donna del lago』(ラ ドンナ デル ラーゴ)というのは、

かの有名なロッシーニのオペラだということを知らなかったのである。

『La donna del lago』  (ラ ドンナ デル ラーゴ)

『La ragazza del lago』 (ラ ラガッツァ デル ラーゴ)

一字違いで大違いとはこういうことであろうか。

ちなみに、

donnaとは、イタリア語で、女性、女、婦人の意。

ragazzaとは、イタリア語で、少女、娘、女の子、(未婚の)若い女性、彼女の意。

del lagoとは、 湖の、という意。

従って、イタリア語のタイトルは、いずれも『湖の女』という感じ。

思えば、タイトルというのは、

過去の何かの作品の題名に酷似させている節がある。

オペラチックな食い違いは、そんなことを気づかせてくれた。

明日は、私が観た映画の方、

『La ragazza del lago』(ラ ラガッツァ デル ラーゴ)、

監督:アンドレア・モライヨーリ
出演:トニ・セルヴィッロ、ヴァレリア・ゴリノ、オメロ・アントヌッティ

を観た際に陥った不思議感覚の話をしようと思う。

「ボンちゃん。ゴリラは、先入観で思い違いしたり、会話が食い違ったりする?」

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2010.01.21

カストラート

カストラート(castrato、イタリア語)の存在を知っているだろうか?

1650年から1世紀頃のバロック時代がその全盛期。

1903年、ローマ教皇がカストラートを禁止した。

イタリア語の動詞、castratoカストラートの意は、「睾丸を除去する、去勢する」

その名詞、castratoカストラートは、カストラート歌手。

少年時代に、声変わりを防ぐために去勢した男性歌手のことをさす。

 

オペラに詳しい知人に教えてもらったのだが、

映画『カストラート』(伊Farinelli Il Castrato)ジェラール・コルビオ監督、(1994年)は、

カストラートとして最も有名だった、ファリネッリの生涯を描いている。

1994年にカストラートは存在しないから、

映画の声は、男性と女性、

二人の声を合成し、カストラートの声に似せて作ったというが、

認識、理解を超えているからか、どこか妖艶な響きに聞こえ、

怪しいほどに美しいというか、

なぜか私は怖さを覚えた。

 

「ボンちゃん。ゴリラはどんな声のトーンが心地よい?」

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2010.01.20

涙の親分

「涙 ながすときには/ひっそりと 戸をしめて/でも/ながした 涙のぶんだけ/戸のなかで/大きな人になって/戻っておいで」

読売新聞、編集手帳(2010年1月20日)に、杉本深由起さんのちょっと風変わりな詩集『漢字のかんじ』(銀の鈴社)、「涙」と題する詩が紹介されていた。

 

なんとも優しい、

おかあさんのような存在感を放つ詩だと思った。

なんとも優しい、

おとうさんのような存在感を放つ詩にするには…、

ちょっと、考えてみた。

 

タイトル、 『涙の親分』 

〈涙 見せるな人前で/まず/戸をあけ 外に出かけてごらん/河 海 沢 湖 沼 どこかへお行き/涙の親分 サンズイに棲む/大きな声だし 暴れてごらん/親分笑わせ 戻っておいで/〉

 

涙の親分に逢ってみたい気がしてきたなあ。

 

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは涙が出そうになったとき、どうしてる?」

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2010.01.19

Acquavita (命の水)

命の水といえば…、こんな話を聞いた。

Italiaはヴェネツィア、その北西100kmの地、

ドロミテ渓谷の梺にバッサーノというグラッパで知られる小さな町がある。

その町に、1779年開業の小さなバーがあり、

その入り口に掲げられている看板には、

「Acquavita (命の水)」と書かれてある。

寒い町における命の水は、

水ではなく、アルコール50度を超える飲み物のようだ。

そのバーのカウンターの壁面には次のように記されてある。

「Chi tiene alla vita beve giusto e beve bene」

=人生を大切にする人は適量を飲み 良い物を飲む

 

ただ、ちょっと気になったことがある。

住人は、朝からグラッパを飲む。

目を覚まそうとするコーヒーにもグラッパを入れる。

おやつのお菓子もグラッパ入り。

忘れてならないのがグラッパの飲み方である。

グラッパは一気飲みしなければいけないらしい。

それが伝統なんだとか、ハハハッ。

 

バッサーノを訪れ、

Acquavita (命の水)を飲むには、

命をかけなければならない。

そう思うのは、私だけだろうか?

 

 

「ボンちゃん。ゴリラはアルコールは飲まないの?」

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2010.01.18

汗の雫と命の水

100円ショップには色々なオモシロイものや便利グッズがある。

今回、災害時に役立つアルミ温熱シートというのを買ってみた。

薄くて軽くてサイズは213cm×137cm。

体の熱を反射して体温を保持するという機能性があるという。

そこで、ベッドをシートで覆って眠る実験をしてみた。

寝返りを打つ時にカサカサカサカサいうのが気になったが、

ベッド内のぬくもりがシートで逃げられない分、確かに温かいような気がした。

しかし、朝起きてアルミ温熱シートを畳もうとしたら、

掛け布団側のシート全体に無数の水滴がつき、

そのせいで掛け布団がしっとりとり濡れていた。

睡眠中、一晩にコップ1杯程度の汗をかくというのは話には聞いて知っていたが、

かいた汗を目視したのは初めての経験だったから物凄く驚いた。

やはり入眠時と起床後にはコップ1杯の水を飲む必要がある。

就寝中に発汗作用が起きて、血液が濃くなるからである。

汗の雫は、正にそれを物語っていた。

朝晩の命の水、忘れずに飲もうね!

 

「ボンちゃん。ゴリラは人間みたいに身体を洗わないのに、トンデモナク臭くならないのはナゼなの?」

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2010.01.17

Ai 導入大賛成!

愛する人が死んだとき、

死んでしまったのだから、死因なんてどうでも良いじゃないか。

そんな風に、私は考えられない。

残された人間にとって、

死因が不明であるということは、

いつまでもその人の死が謎のままであり、

愛する人の永遠の不在に、

折り合いがつけられないことになると思う。

とはいうものの、

遺体を切り刻むことで死因を特定する解剖には抵抗がある。

遺体を傷つけず、ある程度の死因が特定できたら夢のようだ。

それを可能にするのが、「Ai」なのだ。

医師であり、もの書きである海堂尊さんが目指すのは、

「死因不明社会よ、さようなら」の実現化と思われる。

その実現に不可欠となるのが、「Ai」だと海堂尊さんは言う。

「A」は、Autopsy(オートプシー)の略で、「剖検=解剖」の意、

「i」は、imaging(イメージング)の略で、辞書によれば、《超音波検査法などによる内臓などの透視》とあるから、「画像」の意になるのだろろう。

「Ai」とは、オートプシー・イメージング、「画像解剖」。

死因を特定することを目的とし、

屍体に対してCTやMRIを使って検査する画像診断である。

①「特別な検査をしない」「解剖する」という選択肢しかない社会。②「特別な検査をしない」「Aiする」「解剖する」という選択肢のある社会。 
どちらかが良いかと考えれば、私は②の方が断然良いと思う。

しかし、Ai導入には反対派がいてなかなか難しいのが実状。

人間は精神的な存在であることを考えたら、

死因を知る→死因に死の納得が促され→死を受け入れる。

この一連の作業が必要不可欠だと思う。

従って、「Ai」導入、大いに賛成!

富士の山も一歩から。

一市民が「Ai」を理解し、判断し、決断を促すことが、

大きな流れとなって社会を変えていくことにつながるのだろう。

 

「Ai」がよくわかる本↓、是非ともご一読を。

『100万人のオートプシー・イメージング(Ai)入門』江沢 英史 (著)

海堂ニュースはこちら↓

http://author.tkj.jp/kaidou/2010/01/post-30.php

 

「ボンちゃん。ゴリラも死因を知りたい?」

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2010.01.16

トリセツ

書店にはたくさんの本が並んでいるが、

手にとって読む本は、ほんの僅か。

その僅かな中で、その一説に思わず笑ってしまった、

という貴重な活字の集団にであえるのは、

その又ほんの僅か、塵ほどだと思う。

その塵の銀河とも思える本に今日出逢えた。

さすがは我が尊敬する作家、海堂尊さんだった。

『トリセツ・カラダ』海堂尊/著 ヨシタケシンスケ/絵,宝島社,2009

体の仕組みがざっくりと掴め、

これまた海堂さんの熱い愛に満ちている。

その挿画がユーモアに溢れていてタマラナク面白いのだ。

個人的には、膀胱のトリセツが特に気に入っている。

是非ともご一読を。

 

「ボンちゃん。『トリセツ・ゴリラ』の本、書いて欲しい?」

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2010.01.15

生きるのに向いてる!?

「自分自身の、そして他の人々の人生に意味を見出せない人は、単に不幸であるばかりでなく、生きるのに向いていないと言えましょう。」(『アインシュタイン150の言葉』 編:ジェリー メイヤー、ジョン・P. ホームズ/出版社名:ディスカヴァー・トゥエンティワンより )

 

生きるということ自体に、

向き不向きがあるかなど考えたこともなかったから、

オモシロイ考え方だなあ、

と、妙に感心した元成人の日なのだった。

 

「ボンちゃん。ゴリラも、生きることに向いているゴリラと、不向きなゴリラがいると思う?」

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2010.01.14

たまたまたまさ。

綺麗事を言うのは容易いことだと思う。

それを敢えてせず、本音を言う方が実は勇気がいることだと思う。

なぜならば、綺麗事を言う人に徹底的にお説教されるリスクがかなり高いからである。

しかも、上から目線で、さも人生悟っているような口調でね。

例えば、TVを見ていて、ぼそっと次のように呟いたとする。

なぜあの人は、スーパースターとしてあんなに脚光を浴びることができるんだ。勿論、努力はしただろう、しかし、所詮、ただの人間。誰だって心の底から目指すものがある者は、同じように無我夢中で努力はするはず。従って努力の量の差にそれほど違いがあるとは思えない。成功者と失敗者、スーパースターと凡人、成し遂げた者と未だに成し遂げられない者、なんの差があるというんだ。

“そんなことを言うものじゃないよ、半端じゃない努力をして成し遂げた結果であり、実力なんだから。卑しいひがみを口にするもんじゃない”

そんな言葉が返ってくるのが落ちだろうと思う。

 

でも、この本は違った。

全米ベストセラー、ホーキング゙博士絶賛、と帯に記載されていたから読んでみたのだが、

成功者と失敗者に大きな差はなく、たまたまであると。

能力は偉業を約束していないし、

偉業は能力に比例していないのだ、と。 

『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』レナード・ムロディナウ (著), 田中 三彦 (訳), 2010

従って、人々に勇気を与えられる映画監督になりたいとか、感動を伝えられる世界的な女優になりたいとか、

自分の目指すことを人間界で実現させたくば、

自分を高評価しない世間の評価などを気にせず、

自分が信じた道を貫くことだけを考えて行動し、

前向きに生きている必要がある。

さすればいつの日か、

目指す場所に通じる扉が、

“たまたま”の機会で開かれるだろう。

そういうことらしい。

確かに説得力がある。

よくよく考えてみれば、

この世は、たまたまの連続なのだからね。 

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは、他のゴリラの華々しさが気になったりする?」

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2010.01.13

ワカメの畳

朝起きると、

スズ公たち(すずめの一家)とモジーモジコ(ヒヨドリのつがい)が、

いつも朝食を待ちわびている。

 

私の食事事情に寄って、メニューは和洋折衷様々だが、

ご飯、パン、ミカンなんかが大好きのようだ。

いつだったか、茹でたそうめんが余っていて、そのまま入れておいたら一口も食べていなかった。

後に、そうめん、うどん類はみじん切りにしたら食べることが分り、

お蕎麦は細かくしても食べないことが判明した。

お煎餅は、細かく砕いて水でよく洗ってふやかさないと食べないし、

シラス入りのお粥の時は、シラスだけカゴに残っていたし、

水で洗ったチャーハンの時は、何日も雨で洗われた後に食べた。けれど、グリーンピースとヒジキなどの具は最後までカゴに残っていた。

夏は、枝豆なんかも食べてみたいかと思って入れたが、食べない。

種の保存における防衛本能なのか、

好き嫌いが激しいのか、

口奇麗なのか、けっこう色々と食べないのだ。

 

今朝、昨夜の夕食のおじやを入れておいた。

勿論、味が濃いと食べないから水でさっと洗い、

ワカメが少し混ざっていたけれど、

ミネラルも必要かと思って、取り除かずに入れておいたのだが、

帰ってきてカゴを見ると、

ワカメが畳のように敷き詰められて残っていたのだった。

海藻は海にあって、森にはない。

だから鳥は海藻を食べないのだろうか。 

 

 

「ボンちゃん。ゴリラも海藻を食べない?」

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2010.01.12

人は海。

「人は、海のようなものである。あるときは穏やかで友好的。あるときはしけて、悪意に満ちている。ここで知っておかなければならないのは、人間もほとんどが水で構成されているということです。」(『アインシュタイン150の言葉』 編:ジェリー メイヤー、ジョン・P. ホームズ/出版社名:ディスカヴァー・トゥエンティワン )

 

人が人である以上、

色々な顔を見せる。

それは致し方ないことだと、

それが人なのだからと、

理屈ではわかっていても、

常に穏やかな顔を見せて欲しい、

荒れた心は見せないで欲しい、

と、人は人に願う。

それを望むのは無理な話なのだと理解していても、

望んでしまうのは、なぜなのだろうか。

 

人は水で構成されている、

海と似ている生きものである。

20世紀最大の物理学者、

アインシュタインの言葉の響きは心地よい。

けれど、

心に隙間風が吹いてくるのを感じる。

だって、

サンタクロースは実在しないのだ。

と、改めて通告されたような気がするもの。

 

人が木で構成されていたとしたら、

サンタクロースは実在したかも知れないなあ。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラも海なの?」

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2010.01.11

しぐさ

1989年の彼のしぐさが、

2010年になった今でも、

1989年のしぐさのままであることが、

嬉しいのはなぜなのだろうか。

映画「オーシャンズ」にまつわる記事が読売新聞に掲載されていた。

見るとも無く、その記事の写真に目を落とした時、

私の中の遠い記憶の扉が開いた。

頬と唇に片方の手の指が軽く触れている感じのしぐさ、

それは紛れも無く、

サルバトーレ・ディ・ヴィータだった。

サルバトーレ・ディ・ヴィータとは、

1989年のイタリア映画(ジュゼッペ・トルナートーレ監督)

「ニュー・シネマ・パラダイス」の主役を演じた、

フランスの国民的俳優、ジャック・ペランである。

「ニュー・シネマ・パラダイス」の中で、

彼はそのしぐさを何度もする。

それがあまりにも絵になっていたから、覚えていた。

 

人のしぐさは、

何年経っても変わらないものなのだろうか。

 

「ボンちゃん。ゴリラも、しぐさは変わらないの?」

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2010.01.10

特大招き猫

身の丈は、150cmほどあるだろうか。

胴回りは、おそらく80cmぐらい。

それはそれは大きな招き猫なのだ。

門松と並び、

ホテルに来るお客さまを迎えていた。

お目見えは、お正月だけなのかもしれないが、

逢いたい人は、

是非とも、目白の椿山荘に。

 

 

「ボンちゃん。招きゴリラになりたい?」

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2010.01.09

マイナスドライバー

叔母の家にて。

友人が日曜大工を手伝ってくれていた時のことである。

「すいませんが、プラスじゃなくて、

マイナスドライバー、無いですか?」

次の瞬間、

叔母はニッコリしながら答えた。

「うちはプラス思考だから、マイナスのものは、無いのよ」、と。

なぜか笑いが止まらなかったが、

同時に、

奥深い言葉として、

胸にしまっておこうと思ったのだった。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラにも、マイナス思考なゴリラと、プラス思考なゴリラがいるの?」

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2010.01.08

何ともはや カプチーノ

ああ、詮索しなければよかった。

と、今、ちょっと悔いている。

知らぬが仏。とはよく言ったもので、

知ることは必ずしも幸せとイコールではない。

例えば夫の浮気疑惑。

薄々感づいていて、詮索してしまったが最後、

浮気じゃなくて本気なんだと訂正され、空しさのどん底に落ちるとか。

知らない方が幸せでいられることは、けっこうイッパイあるのかもしれない。

それでも人は、

恋人の浮気、妻、夫の浮気という真実を知りたいと願う生きもの。

そうそう、話はカプチーノなのだ!

昨日の玉ログ『カプチーノ』を書いていたら、名前の由来が気になってきて、

調べてしまったのだ。

私にとってのカプチーノの魅力とは、

苦さとまろやかさの、マーブル感と、

この名前゙、カ+プ+チ+ー+ノの組み合わせからなる響きである。

例えば競走馬、

ハルウララと聞けば、勝敗より異なる魅力のありそうな響きだし、

ディープインパクトと聞けば、こぼう抜きにして独走しそうな響きだし、

私にとってカプチーノは、遊び心をくすぐる、なんともユニークな響きなのだ。

そんなに生真面目に生きずに、もっと気楽にね、なるようになるさ♪

カプチーノはそんな響きがあると思っていた。

ああ、それなのに、

名前の由来、

それは、なんともはや、カプチーノ。

カトリック教会の1つ、カプチン会の修道服がフード(カップッチョ=cappuccio 「頭巾、フード」の意)付きで、その色が茶褐色で、それに似ているからだとか。

知的好奇心とは、

愚かな人間の悲しい性なのだろうか。

 

「ボンちゃん。ゴリラも真実を追求する?」

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2010.01.07

カプチーノ

毎朝、カプチーノを飲む度に、この上ない幸せを感じる。

初めてイタリアに行った時にBarでカプチーノを飲んで感動し、

帰国時にミルクフローサー(ミルクをスキューマする器具)を買ってきた。

愛用していたのだが、ついに壊れてしまって、

今度は電池式のミルクフローサーをネットで購入してみた。

今までの手動式カプチーノより、はるかにきめが細かくできる。

従って、ずっと美味しい。

ちなみに、無調整豆乳で作るカプチーノが私の定番で、

無調整豆乳で作る紅茶のカプチーノも気に入っている。

無調整豆乳と言っても各社、全く味が異なっており、

色々と飲み比べているが、

今のところ、カプチーノには紀文の無調整豆乳が一番合うと思う。

是非、カプチーノで至福のひと時を! 

 

 

「ボンちゃん。ゴリラはカプチーノ、好きかな?」

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2010.01.06

たこ焼き作り

ものづくりは、楽しい。

暮れに友人から、電気たこ焼き器を頂いた。

以来、たこ焼き作りに夢中になっている。

 

幼い頃、たこ焼き作りは、

祖母の家で迎えるお正月の恒例行事となっていた。

石油ストーブの上に鉄のたこ焼きフライパンをのせ、

混ぜ合わせた材料を丸い穴に落とし、

焼けた頃合を見ながらキリでコロコロとひっくり返すのである。

これが結構、熟練を要する仕事で、慣れないと難しいのだ。

 

それに比べて、電気たこ焼きは焦げ難いし簡単にできる。

難易度の点で物足りない気もするが、楽しさは変わらない。

祖母も空から懐かしく思って見ているに違いない。

 

餡子に変えれば、餡子焼きにもなるし、

ストレス発散にもなると思うし、

楽しいからやってみて!

 

 

「ボンちゃん。ゴリラが夜店で、たこ焼き作ってたら売れるだろうね!」

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2010.01.05

猫とカラス

団長に会いに公園に寄ったら留守で、

団長の恋猫、ハナちゃんが愛想良く駆け寄ってきてくれた。

団長もハナちゃんも野良猫である。

 

「ハナちゃん、レーズンサンドとお煎餅ならあるけど、食べる?」

と聞くと、好奇心が強いハナちゃんは「ニャァーー!」と即答した。

味見してみたいの。

そう解釈した私は、

1枚の葉っぱに、レーズンサンド(1cm角程の大きさのを6個)、

1枚の葉っぱに、お煎餅を細かく砕いてのせた。

ハナちゃんはレーズンサンドをペロペロ舐めて1つ食べたが、

お煎餅には全く見向きもせず、

レーズンサンドに後ろ毛を引かれることなく、

新たなる食の旅に向かった。

 

すぐさま、 

上空から一部始終を見ていたらしき二羽のカラスが下りてきた。

一羽がレーズンサンドを頬張りだしたのだが、

一度でどこかに運びたいらしく、

くわえては頬張りなおし、終に口ばしに上手く収まると、

お煎餅には見向きもせずに屋根に向かって飛び去った。

もう一羽のカラスはというと、

残されたレーズンサンドの小っちゃな欠片まで奇麗に啄ばみ、

お煎餅には見向きもせずに飛び去ったのだった。

カラスはマヨネーズに目が無いらしいが、レーズンサントも゙好物のようだ。

何はともあれ、 

犬猿の仲であるカラスと猫だが、

お煎餅の話だけは話が合うかもね。

 

「ボンちゃん。ゴリラもお煎餅、嫌?」

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2010.01.04

イタリア映画『ひまわり』

1970年のイタリア映画『ひまわり』(I Girasoli)を観た。

マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレン主演の、

戦争が生んだ悲劇を描いた反戦映画である。

雪に埋もれているイタリア兵(マルチェロ・マストロヤンニ)を救うロシアの娘。

戦後、ロシア人としてロシアに生きるイタリア人。

イタリアに戻らない夫を探すため、

夫の写真を持ってロシアを訪れたイタリア人の妻に、

現地のロシア人は決して冷ややかな眼差しを向けていない。

 

戦争が区別した敵と味方であって、

実際には、同じ苦しみ、悲しみを抱えた同士であると伝わる。

戦争の元では、

人間、動物、植物、生あるものは全て

ただ悲しみに暮れるしかないのだ。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラもアフリカで起きた戦争の犠牲者なんだよね」

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2010.01.03

Windows Vitaはどう?

コンパクトで便利なのでノートPCを使用しているが、

頭が常に下向きになるため、

長時間使用すると首に負担がかかって酷く肩が凝る。

それを解消すべく、数年前から、自宅では

ノートPCを台に載せ、キーボートは別付けして使用しているのだが、

そろそろ私の眼の叫び、

「自宅で見る時ぐらい、大きな画面にかえろ!!」

に、耳を傾けようと思い秋葉原を訪れた。

すると、

なんとWindowsのOSが、

Windows VistaからWindows7になっていたのだ。

PCを選びつつも、

気になって仕方が無かったのがこのネーミング、Windows7。

個人的には、もう少しひねりがあって欲しいと思うのである。

そこでひとつ考えてみた。

Windows Vita (ヴィータ)なんかがいいと思う。

Vitaとはイタリア語で、生命、いのち、人生、一生、生活、暮らし、生活の糧、生気、活気、活力、元気、生きがい、生命の源、活動などの意味がある。

Windows Vita いいネーミングだ!

 

「ボンちゃん。ゴリラも、こだわりを持ちたい派だよね?」

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2010.01.02

2010年は国民読書年なのだという。

英文学者 外山滋比古氏の言葉が心に響いたので、ご紹介したい。 

「本は有用だが、本に“読まれて”しまってはいけない。人間にとって、自分で考えることが第一義的に大切で、知識はその次だ。はじめに読書ありきではなく、自分で毎日を誠実に生き、精神的、人間的に成長していく。その原動力の一つとなるのが本」(2010/1/1読売新聞より)

 

なんでもかんでも自分で考え過ぎるという人もいる。

考えても致し方ないことを、考え続けてしまう。

その考えに終止符を打ってくれるのも本だと思う。

私にとって本は、お星様かな。

 

  

「ボンちゃん。ゴリラは考え過ぎて、疲れない?」

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2010.01.01

2010年の抱負

新年、あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

いま、「新年」、とタイプしようとしたら、

“信念”、と出て、

もう一度、「新年」と書こうとしたら、

“深遠”、と出たので、

今年の抱負はこれにしようと思う。

 

信念をもって、深遠な一年を堪能するぞ!

自分を信じていれば、何も怖くないものね。

 

皆さまにとって素晴しい年でありますよう、

心より祈念いたします!

 

 

  

「ボンちゃん。今年も一緒に色々考えようね」

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