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2010年4月

2010.04.30

生きた証

イタリア映画祭2010『コズモナウター宇宙飛行士』を観てきた。

1950、60年代、共産主義を信棒する兄弟の思春期、少女の心の揺れが描かれているのだが、好き嫌いが分かれるところだと思う。

エンドロールが降り出した頃、

ふと、今は亡き友人が私に言った言葉が思い出された。

当時、彼はハワイに住んでいた。40代後半から弁護士になろうと目覚め、周囲の反対を押し切ってアメリカの大学に入りストレートで弁護士試験に受かったという挑戦者、秀才だった。

そのお祝いにハワイを訪れた際、

一緒に夕陽を見ていたら彼は次のように言って柔らかく微笑んだ。

「ハワイの夕陽を見て、誰もが美しいと言う。

けれど、あの夕陽は誰かと見るから美しいと思えるのであって、

「綺麗だね」と、その美しさを分かち合う誰かがいなければ、それほど美しいとは思わない」

 

それから数年後、彼は病を患い、この世から姿を消してしまった。

今となっては、彼の生きた証は私の記憶なのだろうか。

思えば、映画とは、監督や俳優たちの、魂を込めた生きた証なのか。

 

「ボンちゃん。ゴリラは、同じ景色を誰かと分かち合いたい?」

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2010.04.29

『すれ違い』

雨の九段下、橋の上から水面を眺めた。

ふと目を落としたら、すぐ目の前に一匹のナメクジがいた。

ナメクジは何を思い、あの同じ景色を見ていたのだろう。

 

詩をつくってみた。

 

『すれ違い』

 

こぬか雨知る 心の所在

あらゆる渇きを しっとり沈ませ

忘れた気分さえ 憂い色に染める

次の瞬間 ふと目があった

たった一度 話した思い出

別れ際の 連絡するね

予期せぬ再会に 引き出しが開き

記憶の片隅の 渇きがぬかるむ

 

雨ふりの夜は 心が揺れる

消極と積極 狭間を行き来する 

 

 

半年ぶりに見かけた あなたは

前よりずっと みずみずしく

私は不思議に 目をそらした

気づかぬふりして 目隠し顔

予想外な あなたの反応

何度も感じる 好奇な視線

知らぬふりの ぬかるんだ心 

すれ違い合ったまま 夜は更けゆく 

 

雨ふりの夜は 心が揺れる

消極と積極 狭間を行き来する

 

 

Kudanshita1

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは、消極と積極に揺れる?」

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2010.04.28

虚構のメカニズム

今日、イタリア映画祭2010が開幕した。

前夜の昨日、

ジュリアは夕べに出かけない/Giulia non esce la sera (伊、2009年)

監督 ジュゼッペ・ピッチョーニ

この特別試写会があり、ピッチョーニ監督の舞台挨拶を聞いた。

監督が描く人物像には共通点があるという。

現実に馴染めなさを感じている人物、

いまを共に生きる人々に共感を得られない人物、

自分が安堵できる場を現実の中に見つけられない人物、

境と言うか、狭間にいる、そんなぎりぎりな気持ちを抱えて生きている人物を描くことに興味があるという。

おそらくそれは、監督ご自身なのだろう。

 

ふと思った。

文芸作品などで、想像力によって架空の物語という虚構の世界を創ろうとする人々の多くは、

たとえば感受性が強いとか、情熱的すぎるとか、鈍な部分が欠如しているとか、或いは辛い経験、思いが心をそれに向かわすとか、なんらかの理由があって、

現実の世界に自分の安堵できる居場所が見つけられず、

あがき、

こうなったら自分の世界を創り出そうと、

それまでインプットしてきた多くの負の感情をアウトプットしようとする。

それが、虚構をうむメカニズムなのだろう、と。

 

「ボンちゃん。孤独なゴリラは、心に想像の世界をつくって生きている?」

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2010.04.27

メラビアンの法則

体裁を重んじる振る舞いをする人がいる。

一方、がむしゃらな振る舞いをする人がいる。

どちらの振る舞いの方が本心を伝えられるかを考えると、

やはり、がむしゃらさに体裁は勝てないと思う。

 

大切な人だと感じていれば感じているほど、

大切なことを伝えられなくなるということがある。

けれど、それは多くの場合、

世間の目、相手の目にうつる自分のかっこう、みえ、

という体裁が優先している時ではないかと思う。

カッコ悪いからできないというのが本心なのではないか、と。

 

コミュニケーションには、非言語が放つ力が大きい。

コミュニケーションの法則において、伝わる情報の割合を示す「メラビアンの法則」という興味深いものがある。

55%が、顔の表情

38%が、声質、声の大きさ、声のテンポ

7%が、話す内容

従って、コミュニケーションにおける93%は自分の存在感が何かを放ち、

話す内容の重要性というのは、たった7%なのである。

 

メール社会となった今こそ、

大切な人を失う危険性が孕んでいる時代はない。

すれ違いや、わだかまりに対して、

逃げずに相手に橋をかければ、渉れない橋はないのだと思う。

理由をあげて、橋をかけないのも、橋をはずすのも、

橋を渡ろうとしない臆病な自分がいるだけのことなのかもしれない。

 

大切な人に、大切なことを話す時にだけは、

何を置いてでも、直接会って話すことを忘れないでいたい。 

 

「ボンちゃん。ゴリラもメールができたら、会って話すことを軽んじるようになると思う?」

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2010.04.26

『のらりくらりな人の縁』

今という時に起きている殆どのことは、

残念ながらずっと続かない。

だから、今を充実させ、楽しむしかないのだろう。

 

詩をつくってみた。

 

『のらりくらりな人の縁』

 

それまで知らない 赤の他人

出逢い生じて 知人となって

連絡し合えば 友人関係

心通わせ 親友誕生

 

それぞれの人と それぞれの道へ

のらりくらりな 人の縁

 

すれ違いに わだかまり

寄り添い合わなきゃ 溝ができ

会うことなくなり 疎遠となって

気づいた時には 過去の人

 

それぞれの人と それぞれの道へ

のらりくらりな 人の縁

 

 

悲しみ怖くて 人遠ざけて

自分の殻に ひとり閉じこもる

時が立てば いろいろ忘れ

思い出となれば 美化されゆく

 
それぞれの人と それぞれの道へ

のらりくらりな 人の縁

 

 

 

「ボンちゃん。ゴリラの縁も、のらりくらり?」

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2010.04.25

寅さんのぬくもり

京成の柴又駅を降りれば、そこは車寅次郎な世界。

どうしても寅さんに会いたくなって柴又に行って来た。

 

とらやさん(高木屋)を通り、帝釈天、江戸川土手を歩き、矢切りの渡し舟に乗った。鰻を食べてから寅さん記念館を訪れ、とらやさんで葛餅を食べ、参道を歩き柴又駅にと、マドンナな一日を過ごした。

なぜ鰻かと言うと、愛しの『第17作 男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け』では、日本画の大家・池ノ内青観(宇野重吉)の鰻にまつわるシーンがあるからなのである。

寅さん記念館には、実際に撮影に使用されていた、とらやお茶の間のセット、おばちゃんがお芋の煮っ転がしを作る台所、寅さんの部屋に上がる階段がある。

マドンナな気分に浸ったら、

電話もせずにふらりと、とらやを訪れるマドンナ達の気持ちが、

そして、皆、一様に口にする「本当に来て良かった」という言葉、

その気持ちと言葉に根差す幸福感が何か、

本当の意味で分かったような気がした。

寅さんに会いたくなるマドンナ達の心境は、誰かに期待して敗れたり、誰かに否定された感覚に疲れ、自分を信じる気持が揺らいでいる。 

電話をしないで訪れるのは、もうこれ以上、期待が壊れることを伝えられるのが嫌だからなのだろう。

寅さんたちのぬくもりは、“全面肯定”である。

わたしたちはあたなを絶対に否定しません、

と、一点のかげりもなく全面的に歓迎する。

 

自分を肯定してくれる人に会いたくて、

そのぬくもりを探しながら人は生きているのかもしれない。

わたしが寅さんに会いたくなる時は、

そのぬくもりを強く求めている時だと気付いたから。

 

 

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矢切りの渡し舟

 

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とらやのお茶の間

 

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寅さんの階段

 

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おばちゃんの台所

 

 

「ボンちゃん。ゴリラ界にも寅さんみたいなゴリラ、いる?」

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2010.04.24

『がらんどうな心』

今夜は、なんだか海がみたい気分。

詩をつくってみた。

『がらんどうな心』

 

近寄ろうとせず 近寄らないまま

かかわろうとせず かかわらないまま

分かろうとせず 分からないまま

招こうとせず 誰も招かないまま

涙を失った 無機質な心は

誰もいない がらんどうな心

雨に湿った風が なぜかやけに心地よい 

 

 

「ボンちゃん。深く傷ついたゴリラは、心をがらんどうにしようとする?」

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2010.04.23

ドン・ジョバンニ

オペラ好きな仲間とモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』を鑑賞した。

これはスペインのドン・ファン伝説によるストーリー。

ドン・ファンと言えば、プレイボーイの代名詞。

その映画、『ドン・ジョバンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い』 (伊、IO,DON GIOVANNI)

が銀座テアトルシネマと渋谷Bunkamuraで上映されている。

 

女性版ドン・ファンとして思い浮かぶのは、

ジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』だろうか。

カルメンな感覚を有しない私には、

出逢う人々を次々と誘惑する感覚は想像するに難しい。

ドン・ジョバンニの生き様に果たして美学はあるのだろうか?

彼は孤独を感じているのか?幸せを感じているのか?

心は何を求めているのか?

これらがちょっと気になる。

ということで、ドン・ジョバンニに近々銀座で会うことにしようと思う。

 

「ボンちゃん。ゴリラ界にも、ドンジョバンニなゴリラって、いる?」

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2010.04.22

ずっと忘れないもの

「求め~ないで~ 優しさ~なんか~♪

臆病~ものの~ いいわけ~だから~♪」

 

今日、気付けば口ずさんでいた、『贈る言葉』 作詞 武田鉄矢。

これまで何度も、この歌詞と対話をしてきている。

優しさを求めずに、誰かを愛することができるのは、

自分が自分を愛するより、

それよりもっと、その人を愛している時だろう。

今は空にいる祖母が私に向けてくれていた愛は、

まさに、そういう愛だったと思う。

 

そして、贈る言葉は、次のように締めくくっている。

「これから始まる 暮らしの中で

だれかがあなたを 愛するでしょう

だけど 私ほど あなたのことを

深く愛した ヤツはいない」。

 

きっと、この贈る言葉、贈りたかった言葉で、

叶わなかった言葉のような気もする。

こんなに深く、凄みのある、迫力のある言葉、

贈られてみたい気もするけれど、贈られたくない気もする。

なぜならば、

最大限な愛を向けてくれた人として、

言葉と共にその人の存在が心にずっと居続けてしまうもの、

別れる決断をしたというのに。

 

思いを言葉にして伝える人は少ない。

だからこそ伝えてもらうと嬉しい、勇気を感じることができるから。

たとえ、簡単に伝えられる人がいたとして、

そこに真実さを感じなければ心に響きはしないだろう。

 

愛しい者を見る眼差し。

愛しさを伝えてくれた言葉。

そこに誠を感じた時、

時が経っても、ずっと、ずっと忘れないのだろう。 

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは眼差しで思いを伝えてくれるね」

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2010.04.21

ものづくりマン

ものづくりマンな人は皆そうなのかもしれないが、

凝り性だと、どうしても道具が増えてしまう。

わたしの家にも、ステンドグラスの道具一式、窯、陶芸の道具、ミシン、ロックミシン、お菓子づくり道具、アクセサリー作りのパーツ類、大工道具などなど、いっぱいある。

私はある時、心に決めた。

これからは道具を増やすのはやめよう、と。

それは、新たなる種類のものづくりに挑まないことを意味する。

そう、異なるものづくりに挑まないことを決めたのだ。

ああ、それなのに…。

気付けば去年の秋、

新たなるものづくりの世界に羽ばたくことを決めていた。

羊毛フェルトで、猫のまんまるがま口を作っているニャーン!

  

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「ボンちゃん。ゴリラは一度心に決めたことは守る?」

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2010.04.20

『誰だって』

世の中にはいろんな人がいるように見えるけれど、

その差って、なんなのだろう。

 

詩をつくってみた。

 

『誰だって』 

毎日 陽は昇る

毎日 陽は沈む 

 

誰だって 未知との遭遇で

誰だって 不安

誰だって 病を患う

誰だって 孤独

誰だって 何かを求める

誰だって がんばる

誰だって 時に砕ける

誰だって 季節はめぐる

誰だって 縦横無尽な魂

誰だって 勇気をもてる

誰だって 心解き放てる

 

毎日 陽は昇る

毎日 陽は沈む

 

誰だって 朝を抱ける

誰だって 昼を抱ける

誰だって 夜を抱ける

誰だって 夢を抱ける

誰だって 愛を抱ける

 

毎日 陽は昇る

毎日 陽は沈む

誰だって 時の束の間にいる

誰だって 生きている 命尽きるその日まで 

        

  

 

「ボンちゃん。ゴリラは愛を語るのに、勇気がいる?」

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2010.04.19

『琥珀色の蟻』

〈性〉を挑発的に語った問題作、

性的混乱がやがて崩壊の道をもたらすという、

ピエル・パオロ・パゾニーニの『テオレマ』(伊、1968年)を観た。

それほど問題作とは思わなかったが、

蜜なしに生きられないと思う人間は、

蜜がないと生きられなくなる、そんな世界観が描かれていた。

樹液吸いたさに、命をかける蟻を思い出した。

 

 

詩をつくってみた。

 

『琥珀色の蟻』

濡れる樹液 朝陽の乱反射

通りすがりの 蟻が見つめる

樹液 ぽたり ひどく吸いたい 

無視できない 琥珀色の液体

拒めない魅力を 命が求める

二歩歩み 一歩後ずさる  

樹液を吸う 甘い恍惚

研ぎ澄まされる 感受性

  

樹液 ぽたり からだにぬめりこむ 

思い通りに動かない からだ

希有な硬直が 滴り広がる

からだの細部に 樹液がからまる 

樹液 ぽたり 背中に落ちる 

立ち木の幹の元 蟻は溺れた

琥珀に輝く 神秘なエキストラ  

琥珀の海は 恐怖のない世界

 

時を超え 蟻は琥珀に染まる

琥珀の愛 琥珀色の蟻      

 

「ボンちゃん。ゴリラは琥珀に見とれる?」

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2010.04.18

運命の人

そろそろ藤の花の季節。

雪の影響で樹齢140年を超える600畳敷の大藤の花芽も震えていると思うが、足利フラワーパークでは、2010『ふじのはな物語』が開幕した。

期間、4月16日(金)~5月16日(日)まで。

「うす紅」「むらさき」「白」「きばな」へと咲く時期が若干異なるため、

『ふじのはな物語』と名付けられたようだが、

夜はライトアップされ、更にロマンチックな物語に弾き込まれることになる。

車で行っても、電車で行ってもそう遠くはない。

浅草から特急に乗り足利駅で下車し、確かこの時期はシャトルバスがフラワーパークまで運んでくれる。

近くに、伊万里・鍋島の磁器専門の栗田美術館があって、

緑に囲まれた広々とした敷地に、

モノトーンな色調の格調高い建物が調和し、

洗練された雰囲気が醸し出されている。

 

今年は、いつ、誰と、私は足利を訪れることになるのだろう…。

未来地図となる運命というものが、もし決まっているとするなら、

そしてそれが詳細なものであるなら、

そこで起きる『わたしの物語』も、

それはもう決まっていることになる。

ただ、そうなると、出逢うすべての人は運命の人と言える。

たとえば近所の騒音おばさんも、

電車に隣り合わせた酔っ払いも、

そう、みーんな、自分にとっては運命の人になる。

感情的には、それはちょっと嫌かもな~?!

 

「ボンちゃん。ゴリラはゴリラ同士、運命について話したりする?」

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2010.04.17

季節はずれの雪

昨日の夜から雪が降り出した。

希な春の雪。

最遅雪記録は、1969年4月17日だというから41年ぶりの出来事。

珍しい春の雪の日に、

それぞれの人が様々な思いを胸に刻んだにちがいない。

嬉しいことも哀しいことも、人生の思い出となっていくのだろう。

 

小さい頃から雪が好きだった。

夜型人間な私は、いまも変わらず朝が苦手なのだが、

その頃、雪の日だけは目がパッチリ覚めた。

物心ついた頃、気付けば私は横浜に住んでいて、そこで5歳の終わりまで過ごした。

家の左斜め前には、家を建てる用の四角い空き地があった。

雪が降った日、目覚めたと同時に一目散に空き地に向かい、真っ白な四角いスペースに足跡をつけるのが好きだった。

ちょっと寝坊して、誰かの足跡があったりすると、なんだか寂しくて、やるせなくて、遅く起きた自分にふがいなさを感じたりしていた。

その時のことは、なぜか昨日のことのように覚えている。

大人になった今も、雪が降ると足跡をつけに外に行きたくなるのも、

雪を踏むと、嬉しさと寂しさが混ざるのも、

その思い出があるからだろうか。

2010年4月16日の季節はずれの雪の日のことを、

きっと私は思い出すことだろう、

時が経っても、

雪を見る度に。

 

「ボンちゃん。ゴリラは雪の日の出来事って、特に印象的?」

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2010.04.16

紅白のバラ

4月4日、紅白の大きなバラの花を友人が贈ってくれた。

偶然にも、その日は亡き姉の誕生日だったから、

そんなことは何も知らない友人が花束を渡してくれた時、

私の中に姉と私の二人の存在を感じているのかもしれない、

と思ったりもして、ちょっとビックリした。

バラが二色であることも、数が3本であることも意味があるように思えた。

なぜならば…、一色のバラは多いけれど、一本に二色が交じり合う種類のバラは少ないからである。

紅白のバラに、どんな思いを込めて贈ってくれたのだろうか、

バラに込められた思いを想像してみようと思う。

 

赤と白の結合。この意味するところは…、

お互いが持つ色、その秘めたる可能性が交じり合う時、二色の想像性は大きな創造へと変わり、類を見ない魅力、香りを放つであろう。

3本。この意味するところは…、

3は、聖なる数とか様々な説があるから絞れないが、「過去、現在、未来」という3つステージにおいて、ずっと咲き続ける花、永遠に絡み合う関係性、永遠の創造。

感覚を分かち合える間柄、魂を絡め合える関係性、かけがえのない存在の結びつき、続きますように、ずっと…!

あれから、12日が経った。バラは元気に咲いている。

想像力溢れるロマンチックな友人の心を、

紅白のバラはしっかりと伝えてくれたように思う。

友人に贈る言葉

魂の絡み合いは時に猫パンチを生む。

ありがとう。そして、ありがとう。 

 

「ボンちゃん。ゴリラは贈り物にメッセージを込めたりする?」

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2010.04.15

一瞬な相思相愛

相思相愛といえば、男女が互いに愛し合うことをさすが、

時に、瞬間的相思相愛とでもいう感覚に陥ることがある。

よく知らない人でも、よく知った人でも、

誰かと楽しく話している時に偶に起きる。

それは、相思相愛な恋人と話しているような感覚に浸って、

話が終わる頃、その感覚は波がひくようにひいていく。

まれに、

同じ感覚を持っていると思われる人に出逢うと、

瞬間相思相愛密度は濃くなるようで、どんどんワクワクしてくる。

これを相乗効果というのだろうか。

その時の私の脳の状態はきっと、

相思相愛な恋人と話している時と同じ状態なのではないかと思う。

 

思えば、これまでの生きる歩みの中で学習したのかもしれない。

相思相愛が起きる確率は、

超怪奇現象が起きる確率ほど少ない。

相思相愛は、ミラクルな現象だと思われ、ひとつの超怪奇現象、私が誰かに恋焦がれても、相手が私に恋焦がれてこなければ致し方ないし、相手が私に恋焦がれてくれても、私が相手に恋焦がれなければ致し方ないし、

ミラクルな合致だけを待ち望むのはやめよう。

パルナサス博士のように、永遠の命があるわけではないのだから、

一瞬な相思相愛で幸せを感じようではないか、と。

そんな価値観が私の心に芽生えた、この順応性を、

心の進化というのだろうか…。

 

「ボンちゃん。ゴリラにも、瞬間的相思相愛って、ある?」

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2010.04.14

一度捨てた概念

“愛”や“信頼”に対する考え方というのは、

それまでの経験が大きく影響してくると思うが、

一度捨てた概念を取り戻し、

再びそれを表に現すということは、

よほどの強い思いが生じない限り挑めない作業だろうと思う。

なぜならば、自分を不安定にする、苦しめる概念であるからこそ、

過去に捨てたものなのだから、

取り戻してしまったら、身を滅ぼし兼ねない。

 

この映画は、まさにそういう話だった。 

Le conseguenze dell'amore/愛の果てへの旅 (伊)2004 

監督 ・脚本 : パオロ・ソレンティーノ

主人公の男性(50歳)は、ある事件に巻き込まれたことで、愛するというすべての欲を封印し、自分の心を凍結させ、生きる屍と化して生きていた。

が、ある若い娘の存在と彼女の一言がきっかけとなり、それまで封印していた感情と情熱が蘇り、“愛”や“信頼”に対する概念を取り戻して表現することになる。

が、恋の結末は過酷な運命に翻弄されるのだった。

 

傷つくのが怖い感情の強さと、恋に臆病になる強さは比例しているように思うが、

恋の行く末を想像して感情のヴォルテージを下げたり、

心のバランスを欠く怖さ、煩わしさや、

ふられた場合のショックからの立ち直り力を考慮したりして、

或いは、相手がまぶしすぎて言いだせないとか、

いずれにしても、好きな人に好きと言えないまま、

時をやり過ごしてしまうことは、

今はいいが、未来には、やるせなき後悔の念に駆られるように思う。

とはいうものの、誰もが情熱的に生きる方が幸せだとも一概には言えない気もする。

なぜならば、その人が湧きおこす勇気の量によって、幸せ度、生き方への納得度が変わってくると思うからである。

しかし、ごちゃごちゃと心で会議し、いくら作戦を練っていても、

心が誰かに強く惹かれてしまったら最後、

気付けばその人が心にいっぱいで、

一度捨てた概念は勝手に心に戻ってきて、

心も体もその人を求めだしてしまう、

そんなものらしい。ハハハッ!

そんな感情に陥っている自分に気付いたら、

それは恋なのだと思うヨ!

さぁ、ご一緒に!

恋だ、恋だょ、恋なのだ!

 

「ボンちゃん。ゴリラは、一度捨てた概念を取り戻したりする?」

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2010.04.13

『優しさのための優しさ』

詩をつくってみた。

 

『優しさのための優しさ』

 

偶然の連続な ありふれた日常

ノスタルジックな 曲の楽譜に

ふと立ち止まり 優しさ見つめる

こぼれた涙が 音符にのった

オタマジャクシが 息吹き返し

涙の中で およぎだした

涙が揺れる 尾っぽが揺れる

 

オタマジャクシが わたしを諭す

うわべを飾る アートのような

優しさのための 優しさもある

それはきっと 魂の影

それはきっと 涙の芸術

それはきっと 心の盾 

涙が揺れる 尾っぽが揺れる  

 

「ボンちゃん。ゴリラはシルバーな背中で諭してくれるね」

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2010.04.12

優しさのための優しさ

今日の雨で桜は散ったことだろう。

なんだか今日は雨が哀しかった。

気付けば“優しさ”について思いを馳せていた。

今まで沢山の人に優しさを頂いた。その感動や幸せに支えられながら、守られながら今を生きている。もしそれらが無かったなら、人間界に幅を利かせる見えない渦巻きに気後れし、完敗していたと思う。

ただ、優しさにも色々あるだろう。

もし、その優しさが、“優しさのための優しさ”だと感じたとしたら、

悲しさで胸がしめつけられることだろう。

 

芸術至上主義という言葉がある。

辞書によれば、芸術は他のものの手段として存在するのではなく、それ自身が目的であり、価値ある立場。「芸術のための芸術」を理念とする。

これを“優しさ”に置き換えて言うと、

“優しさ”は他のものの手段として存在するのではなく、それ自身が目的であり、価値ある立場。「“優しさ”のための“優しさ”」を理念とする。

 

その優しさに魂の不在感を感じた時、

優しいけれど優しくない、

それは、“優しさのための優しさ”なのだと、

私はそう感じるにちがいない。

 

「ボンちゃん。魂をどこかに避難させて生きているゴリラに会ったことある?」
 
    

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2010.04.11

アーモンドの花

いつか訪れてみたい街がある。

イタリアはシチリアのアグリジェント。

2,500年近い歴史を有するその街に、世界遺産に登録されている神殿の谷と呼ばれる地区があり、たくさんのアーモンドの木が植えてあるという。

アーモンドの花は桜に似ていると聞く。

アーモンドの道と桜の道、微妙に異なる花の道を歩くとき、

どんな微妙な感情が沸き起こるのだろう。

いつか歩いてみたい、叶うことなら愛し合える誰かと共に。

 

「ボンちゃん。ゴリラが好きな代表的なお花って、な~に?」
 
    

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2010.04.10

心ポトン現象

先日、知り合って間もない人にある事を言われ、

鋭い!と思った。その人は次のように私に言ったのだった。

わぁー、と何かを夢中にやっていたかと思うと、

電池が切れるようにぷつっと切れてしまうような感じがする、と。

確かに私にはそういうところがある。

心ポトン現象が起きるのだ。

ずいぶんと昔のことだが、こんなことがあったのを思い出した。

とても優しくて無口な男性とお付き合いをしていた時のこと。

彼とのデートは、決まって私が話題をなげかける話役。彼は聞き役。彼はニコニコと頷き、いつも私を見守ってくれている感じだった。

そして、ある日、私は思った。

もし私が黙っていたら、このデートはどうなるのだろうか?、と。

その素朴な疑問をぶつけるべく、黙ってみることにしてみた。

彼は不安げになり、落ち着きがなくなった。何度も何度も「今日はどうしたの?具合でも悪い?」と聞いてくるようになった。

その時ふと思った。

私は彼の沈黙に耐えられず、間を言葉で埋めていたのか…、と。

彼は私の沈黙に耐えられないのか…、と。

それに気付いたら、なんだか一緒にいることがつまらなく思えてしまったのだ。

そして、私は彼に別れを告げた。

少し前まであんなに楽しそうに笑って話していた女の子が、突然黙り出したかと思ったら、急に別れを告げたのだから、彼にしたらわけがわからなかったにちがいない。

実際、なぜ別れなければならないのか、全く理解できない様子で、いつになく彼は取り乱して私に言った。

「俺、一生結婚しないから」、と。

彼が結婚したという話を聞いたのは、それから3年後ぐらいだったと思う。

その時、私は思った。

あれ?一生、結婚しないって言ってたのに…、と。

まあ、それは冗談だが、お互いの人生に接点がなくなってしまったけれど、今でも、彼の純粋さ、優しさはずっと覚えているし、幸せになって欲しいと心から思っている。

 

人から見れば小さなことなのかもしれない。

けれど、それが私には大切なことで、その感覚を一緒に分かち合えないことは、悲しすぎて血が凍るのだ。そして、それまでのすべてを終わらせてしまいたくなるところが私にはある。

そんな時、私の心はポトンと落ちるのだ。

ただひとつ言えることは、

心がポトンと落ちて別れの道を選んだとしても、

それまでの思い出は落ちることなく大切な思い出として残ってゆく。

いずれにしても、心ポトン現象をさりげなく見抜くとは、鋭い人だ!

 

「ボンちゃん。ゴリラにも、心がポトンッて落ちることある?」

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2010.04.09

目白の桜

今日見つけた絵になる桜の風景。

椿山荘に行く途中に見つけた江戸川橋の上からの一枚。

Mejiro1

 

「ボンちゃん。ゴリラは水辺が嫌いだって聞くけど、本当?」

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2010.04.08

断られるリスク

ふと思った。

人生を楽しみたければ、努力が必要なのだ、と。

たとえば、

「カオちゃんー、あそぼっ!」

と、カオちゃんの家に行ってピンポンを押して誘えるマルモちゃんと、

誘ってもらえるのを家で待っているカオちゃんがいるとする。

マルモちゃんは誘うことで、断られるリスクを背負っているが、

カオちゃんはいつでも遊ぶか遊ばないかを伝えるだけ。

どっちが攻めな生き方で勇気があるかと言えば、マルモちゃんで、

カオちゃんは守りな生き方、どちらかと言えば小心者と言えよう。

人見知りだと言えば許される問題でもない気がする。

なぜならば、マルモちゃんはリスクを承知で努力をしている。

断られたら嬉しくはないはず、けれど楽しくしたいから、勇気を出して誘いに行っているのだから。

 

自分の人生を振り返ってみても、

やけに守りな姿勢でいた時はろくなことがなかった。

そして、

なるようになるでしょ、と攻めな姿勢で生きている時、

ろくなことに転がったりしていた気がする。

誰だったかが言っていた言葉を思い出す。

人生なんて楽しくない。

だからこそ、自分で楽しくする努力をしなければいけないのだ、と。

断られるリスクを人に託す大人にだけはなりたくないと思う。

 

 

「ボンちゃん。ゴリラにも小心者はいる?」

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2010.04.07

『月のうさぎ』 

月旅行が2012年以降には実施されるようだが、

1回の飛行につき旅行者2名が搭乗可能なのだとか。

月では、うさぎがお餅つきをしている。

そう信じ続けているのは私だけだろうか…。

 

詩をつくってみた。

 

『月のうさぎ』 

 

5歳までは 順風満帆

10歳あたりで 人に迷い

戸惑い抱えて 彷徨い出した

不安な心 たじろいでいる

生きる勇気を わたしにください

 

月のうさぎに 話しかけるが

振り向きもせず 餅つきしている

頬をつたう ぬるい涙の

ぬくもり頼りに 答えを弄る

生きる勇気を わたしにください

 

群青の空に 星があるように

暗い心に 星が欲しいと

月のうさぎに 悲しみぶつける

人が怖いの 人が恐ろしい

生きる勇気を わたしにください

 

ある秋の 満月の夜

月のうさぎが 手を休め呟いた

臆病に生きれば 臆病な旅人

二度と戻れない たった今が

ただそれだけが 人生の詩

生きる勇気は 勇士に宿る

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは悲しい時、月を見上げる?」

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2010.04.06

『出逢い』

春は、出逢った人と別れることの多い季節。

悲しいかな、出逢いの数だけ別れは必ず訪れる。

別れが嫌で、

浅いつき合いに徹すれば、

心の揺れも少ないし、別れの辛さも浅いだろう。

それでも、

自分の心と人の心を近寄らないように努力することは、

それはきっと、

寂しい努力なんだろうと思う。

詩をつくってみた。

 

『出逢い』

出逢った瞬間 うっすら見える 

晩夏の海で ひとり彼方見る

涙に濡れる 未来の絵柄

 

池のほとりで 心躍らせ

憂いな想像 柳にあずけ

桜吹雪に 今を抱きしめる

 

瞳に染みいる 冴えた風に

時と心の 移ろい感じる頃

過去に 今に 未来に 怯える

 

別れは 出逢いの着地点と

砕けた心 ひろい集めて

空を見上げれば 小雪が心彩る 

 

「ボンちゃん、ゴリラは別れが怖くて、出逢いを遠ざける?」

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2010.04.05

蚊逃げミカン香

最近、網戸に蚊がとまっているのを発見することが多い。

そう、また蚊の季節なのだ。

蚊にこよなく愛される私としては、愛されることを喜んではいられない。

そこで、常々対策を考えていたのだが、

友人が大発見な対策を教えてくれた。

蚊取り線香とは異なる、蚊逃げミカン香なのだ。

 

蚊逃げミカン香の作り方をご紹介したい。

※あなたの行動に追って説明しよう。

①まず、ミカンを食べる。

②次にあなたはミカンの皮をごみ箱に捨てようとするが、それを捨ててはいけないのだ。

③ミカンの皮を干すのである。カラカラに乾燥するまで干すのだ。

④そのカラカラミカン皮を灰皿かなにかに乗せ、着火する。(火事にならないように要注意)

このほど、網戸で一休み中の蚊に実験してみたところ、オレンジピールな香りが漂うと蚊が逃げるのである。

自然派で身体にも安心。

蚊取り線香の香りが髪やカーテンにつくのも避けられる。

アロマな効果もありそうだし、

これで蚊が私を愛さないでくれたら、こんなに嬉しいことはない。 

これからの季節、蚊逃げミカン香がかかせない。

 

「ボンちゃん。ゴリラも蚊が苦手?」

 

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2010.04.04

疑心暗鬼

疑心暗鬼という四字熟語がある。

疑う心が強くなると、なんでもかんでも恐ろしく感じられたり、疑わしく思えたりすることの意だが、

漢字の並びから想像すれば、

疑っていると暗闇に鬼が見えるような感覚に襲われる、そんなような意味ではないかと思われる。

心に見える鬼を退治する良い方法はないものかと思案していたら、

「鬼を酢にして食う」という面白い慣用句を見つけた。

「鬼を酢にして食う」とは、恐ろしいものをなんとも思わないことの意。

 

なるほど、鬼の酢漬けにして食べることができれば、

鬼を退治し、恐ろしいものをなんとも思わなくなる、

言わば、疑心暗鬼とおさらばできるということなのだ。

それならば、

酢を飲み“恐怖”=“鬼”を酢漬けにすればいいのではないか。

たしかに理屈を考えればこうだ。

己の内部に既に鬼はいる。だから、鬼を食べる必要はない。

酢を飲めば、「鬼を酢にして食う」が実践されているのだ!

酢は身体にいいとは良く聞くが、ハハッ!そういうことだったのか!

 

 

「ボンちゃん。ゴリラも疑心暗鬼になったりする?」

 

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2010.04.03

ぼんぼり

あと僅かな時間が過ぎると桜の花が散ってしまう、

また時の移ろいを感じるのかと思うと寂しい。

四季の移ろい、心の移ろい、は避けて通れない世の常。

せめて今だけは、散りゆく桜、消えゆく時間を楽しみたい。

昼の桜もいいが、夜の桜もいい。

夜桜に欠かせない、ぼんぼり。

ぼんぼり・ボンボリ・雪洞

どれも皆“ぼんぼり”と読むが、

一番ぼんぼりな雰囲気を放っているのは、”ぼんぼり”だと思う。

ぼんぼりにも色々な色がある。

私が好きなぼんぼりは、王子の飛鳥山のぼんぼり。

怪しげな色っぽさに狐の気配を感じるからだろうか…。

 

「ボンちゃん。ゴリラは怪しげな色っぽさが好き?」

 

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2010.04.02

ネコ鮫くんへ

写真はネコ鮫。こちらもお寿司屋さんの水槽にいた。

水槽右手いるタニシを食べると店員さんは言っていた。

調べたら、浅瀬の海底に生息し、サザエ・エビ・カニなどを食べるとある。

そこで、ネコ鮫に語りかけたいと思う。

 

ネコ鮫くんへ

キミはタニシしか食べられない食生活に不満を抱いていることだろう。

そうだね、向こうにはカニが見えるというのに。

希望を削ぐようで言いにくいが、キミが今いるのは海底ではない。

人間界、寿司屋、水槽なのだ。

キミの目に見えるカニは、人間界、寿司屋、もうひとつの水槽にいる。

残念ながら、キミのいる水槽と、もうひとつの水槽は繋がっていない。

だから、キミは生涯タニシしか口にすることができないかもしれない。

なぜならば、人間界ではサザエ・エビ・カニは高級品で、その対価に見合うお金を支払った者だけが食べられるというルールがある。

従って、キミが、サザエ・エビ・カニを頬張れる可能性は低いと言えよう。

しかし、可能性は低いが、食べられる可能性はゼロでない。

なぜならば、人間界にも色々な人間がいる。

キミの苦しい心の内を察する者が現れれば、

内緒で、キミの好物をくれるかもしれないからね。

ん? カニ汁のお椀に残ったカニは調理場に戻る…。

んん? 刺身のエビの尻尾や貝類の甲羅は調理場に戻る…。

んんん? キミは、ずんぐりとしていたし、栄養失調にはみえない…。

もしかしたら…、毎日、好きなものを食べている?!

それから、気になっているであろう事をもうひとつ伝えたい。

キミのいるお寿司屋さんのメニューには鮫料理はない。

したがって、人間に命を狙われる危険はないと思われる。

だから安心して泳いでいられるよ。けれど、物凄く狭いね。

もしかしたら…、住宅事情にご不満?

Same2

 

「ボンちゃん、ゴリラには声無き声が聞こえる?」

 

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2010.04.01

鮫と見つめあった日

お寿司屋さんに行ったら、水槽に鮫がいた。

目力が強くてイケ面だなーと思ってジロジロ見ていたら、

鮫も私をジロジロみてきた。

しばらく見つめあったりもした。

鮫は何を思いながら、私を見ていたのだろうか…。

 

 Same1

「ボンちゃん、ゴリラはサメを見て何を思う?」

 

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