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2011年2月

2011.02.28

雨が言霊を海に。

今朝、東京は大雨が降っている。

雨がそうさせるのか、雨空を見上げながら、こんなことを思った。

 

単純に考えて地球儀が転がるのは地球が丸いから。

ということは、地球はぜんぶ繋がっている。

 

あなたの住む国と私の住む国の間には海がある。

だから、

繋がっていないように見える。

けれど、

私たちを引き裂いているかのように見える海は、

私たちを繋げてくれてもいるのだ。

誰かがガラス瓶に手紙を入れたものが、

どこかの国に流れ着くことがあるように、

空気や水の可能性を信じるならば、

言霊は、

ぜんぶ繋がっている丸い地球を巡り巡って、

いつしか遠い海の向こうに住む人の元に届くように思える。

 

宗教に御経や音楽がつきものなのは、その伝播の力を活用しているのだと思うし。

だから自分が住んでいる所から遠い場所にある世界にだって、

自分の夢は届く。

その思いの純度が高ければ高いほど。

 

私は思う。

不遇な時こそ、

海や空に向かって夢を語り続けることが大切だと。

もしかしたら…雨の日は、

雨が言霊を海に運んでくれる絶好のチャンスの日なのかもしれないね。

 

「ボンちゃん、ゴリラは言霊を感じる?」

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2011.02.27

猫パンチな魅力

あなたにとって猫の最大の魅力は?と聞かれたら、

ゴリラの魅力と同じ理由なのだが、その存在感だと思う。

一部分をあげるならば、必殺技である猫パンチ。

いつも寝ているくせに、肝腎な時はアッと驚かせる力を魅せつけ、

こやつ、ただものじゃないと思わせる。

人間には決して気付かれぬように、

どこかであの敏捷性と腕力を鍛えているに違いない…、

と、私は密かに思っている。

こうしたギャップ、猫パンチ的魅力を持つ人といえば、

最近、偶然見かけた松平残九郎、通称:斬九郎(渡辺謙)である。

知人宅のCSの時代劇専門チャンネルで偶然に見たのだが、

斬九郎の魅力は猫の魅力と似ていると思うのだ。

母親(岸田今日子)に頭が上がらない斬九郎は、

元々、家柄は名門だが、

貧しい御家人として裏稼業によって母親を養っている。

美しくて可愛くて気っ風の良い深川芸者の蔦吉(若村麻由美)と相思相愛。

普段はぼっとしている斬九郎だが、

しっかりと魅力溢れる女性を虜にしているし、

強気を挫き、弱気を助け、豪快な太刀さばきで悪を討つのだ。

ね、斬九郎と猫、とっても似ているじゃない?!

 

ちなみに、犬は猫のようなパンチも木登りもできない。

聞いた話では、

その理由は、身体的な要因で鎖骨が無いからだという。

鎖骨は、腕の支持棒として機能しているが、

鎖骨がある生きものたち、

例えば、ヒトをはじめとした霊長目、モグラ、コウモリ、ネズミ、リス、クマといった、

元々、森林で暮らした生きものには鎖骨があり、 

ウマ、キリン、ゾウ、といった、

草原に出て行った動物たちには鎖骨がないという。

 

今日はこれにて。

 

「ボンちゃん、ゴリラは受身的な生きものなのに、いざという時の為に、森一番の怪力を持っているんだよね!」

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2011.02.26

ナポレオンフィッシュ

今日の私は、

見ようによっては地上を歩くナポレオンフィッシュに見えたかもしれない。

ナポレオンフィッシュを知らない方もいらっしゃるかと思うので、

チョピットご説明を。

ナポレオンフィッシュはスズキ目・ベラ科の最大種。

正式な名はメガネモチノウオ。

オスは全長2mにもなり体重も180kg程度に達することもあるという超巨大魚。

身体に比例した大きい顔に、

どーんとついた分厚い唇。

なぜだか口はいつも半開き。

その表情は、

ものすごーく不機嫌そうに見える。

もしかしたらご機嫌なのかもしれないけれど、

残念ながら私はナポレオンフィッシュと心を通じ合わすことができないから、

依然、真相は分からないまま。

今日の私は、

目はゴロゴロして痒く、

くしゃみは絶え間なく出て、

鼻水は岩清水の如く鼻から湧いていたから、

その顔つきはかなり不機嫌に見えたかもしれない。

特に機嫌が斜めだったわけでは無いのだけれどね。

自分の顔を鏡で見たら、

「ワァッ!ナポレオンフィッシュがいる」

と、そう思ったのだ。

ナポレオンフィッシュはこういうお顔なのだヨ!↓

 

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

 

「ボンちゃん、ゴリラも花粉対策にマスクが欲しい?」

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2011.02.25

春一番

今日、東京で春一番が吹いた。

春と言えば、避けては通れないのが花粉の飛散。

 

今年も花粉は見事に育ち、

失敗することなく風に乗ってやってきたのを、

私の目も鼻もしっかりと感知した。

何も春一番と一緒に華麗なる登場をしなくても良いのに。

 

(´;ω;`)ウウ・・・

 

そこで一句を詠んでみたい。

「目が痒い 花粉の飛散に 春を知る」

 

「ボンちゃん、動物園のゴリラも花粉症だよね」 

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2011.02.24

零妻者

昔、日本には側室制度や妾を持つケースなどはあったが、

近代的な民法の施行により今の日本は一夫一婦制である。

世界のどこかに一婦多夫制の国があるかどうかは知らないが、

一夫多妻制の国といえば、

イスラム教徒の多いアラビア半島の国々などが思い浮かぶ。

なぜ一夫多妻制の話題かというと、

今日配信されたロイターのニュースに目が前の方に浮遊したからなのである。

 

( Д) ゚ ゚

 

インド北東部に住む66歳の男性は、

1年の内に10人の女性と結婚したことがあるというのだ。

そればかりか、

現在では総勢167人(妻が39人、子供が94人、孫が33人)と同居中。

そして、

この先もこれまで通り家族を増やすことを考えているらしい。

ただ、この男性の結婚観は、

一般的な男性の持つ結婚観とは少し異なるのかもしれない。

それというのは、

この方は、一夫多妻を認める現地のキリスト教系団体を率いているというから。

 

それはそうと、

一夫一婦制、一夫多妻制、一妻多夫制といった制度の話は余所にして、

多妻者から求婚されるのと、

零妻者(れいさいしゃ)という言葉は聞いたことがないけれど、

零の妻を持つ者という造語に今回して話を進めよう、

私は叶うことなら多妻者から求婚されるよりも零妻者から求婚されたいと思う。

勿論、多妻者の愛情の量が零妻者の愛情の量を下回るとは思わない。

けれどネ…、

やっぱりなんとなく…希望的にも願望的にも、

一人の男性が、大勢の女性の中からたった一人、

私を妻として選んだという女性になりたい。

それと同じ理由で、

たとえ一妻多夫制の元にあっても何人もの夫を持とうともしないだろうと思う。

いや、よくよく考えれば、もっとロマンティックに…、

一夫多妻制の下にあるのに、

その男性は、一夫一婦制のように私だけを選ぶというのが素敵だなあ…、

と、思ったりする。

勿論、私だって

たとえ一妻多夫制の下であっても、

たった一人の男性と結婚を貫く覚悟ではいる。

が、

我が愛しのクラウディオ・バリョーニにギターを弾き語りに愛を囁かれたら、

マチガイナク気持ちは揺らぐだろう`;:゙;`;・(゚ε゚ )プッ!!

 

「ボンちゃん、ゴリラは一夫多妻制だね」

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2011.02.23

祈ろう。

ロイター通信によれば、

ニュージーランドを襲った大地震による影響で、

タスマン氷河の一部が崩壊し、

約3000万トンの巨大な氷が湖に流れ込んだという。

被害が最も大きいクライストチャーチでは、

語学学校ビルでの捜索が世を徹して行われている。

どうか、一秒でも早く助け出されますように。 

 

「ボンちゃん、心から祈ろう」

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2011.02.22

モチモチのお餅

吐き気を伴なう風邪がぬけたようでやっと食欲が出てきた。

金、土、日は昼間も布団と仲良く過ごし、

ポカリスエットとフルーツだけで凌いでいたのだが、

昨日になったら急にお餅が食べたくなって、

きなこ餅を食べることに成功した。

成功するというのも可笑しな表現だけれど、

食べ物を想像しただけで吐き気に襲われるという変な風邪だったから、

固形物を口にするのが怖いほどだったのである。

今は普通に食事ができるようになって、

また、きな粉餅を食べたのだが、

少し大きめの器にお餅を一つ入れ、

お餅が隠れるほどの量の水を器に入れて電子レンジで1分10秒チンすると、

お餅がモチモチになって、つきたてみたいになることを発見したのである。

是非、お試しあれ。

 

「ボンちゃん、ゴリラがお餅つきしてたら、絵になるね」

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2011.02.21

シルク・ドゥ・ソレイユ

いつだったか山手線の電車内の広告が、

シルク・ドゥ・ソレイユの『クーザ』一色だったことがあり圧倒されたが、

世界最高峰のエンターテイメント集団の類いまれなパフォーマンスを、

観たいと思いつつ時は過ぎて、

でも今回、『クーザ』は是非とも観たいと思っている。

 

JCB発行の雑誌 THE GOLD 3月号に、

ラスベガスでのシルク・ドゥ・ソレイユの公演、4演目が紹介されていた。

MYSTE`RE ミステール

O オー

KA` カー

Viva ELVIS ヴィヴァ・エルヴィス

 

元五輪選手が何人も所属しているらしく、

どれもこれも見所は全て、絶対に見逃してはダメだ、

という気がしてくる。

MYSTE`RE ミステールは全身の力とバネとバランスの筋肉な世界らしい。

O オーは、水の世界でアーティストが人魚やトビウオに見えたり、

KA` カーは、精霊をオリエンタルな雰囲気で奇想天外に表現、

Viva ELVIS ヴィヴァ・エルヴィスはダンス、アクロバット、ライブミュージックなど。

ラスベガスに行けば4演目の全てが観られるらしく、

すぐにでも飛んで公演を観たいという気になってくる。

 

ヒャァーミタイ!.。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。..イキタイ!ミタイ!!!

 

「ボンちゃん、ゴリラは精霊と話ができる?」

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2011.02.20

ひとりぽっちな雰囲気

マルタ島の猫と人々を紹介するドキュメンタリー番組、

「マルタの猫 地中海 人とネコの不思議な物語」を見て。

 (NHKオンデマンドで配信中)

マルタ島とは、

シチリアよりやや南に位置する、

地中海中央部に浮かぶ猫の楽園のような島。

人口38万人に対して、

なんと猫の数は推定50万匹で、その9割が野良猫だという。

中でも興味を惹かれたのは、

キャットマンとも猫のプリンスとも呼ばれるマヌエルという男性の存在だった。

彼は朝早くから夜遅くまで、

行く先々でキャットフードの缶詰を買い足しながら猫にご飯をあげて歩く。

仕事は持たず、ひたすら猫にご飯をあげる日々を送っている。

友だちもほとんどいないという。

その土地の誰もが寄り添い合って祝うクリスマスの日も、

彼は一人で夜遅くまで猫にご飯をあげてまわっていた。

その、なんだか孤独漂うひとりぽっちな雰囲気に、

孤独な人間像を見たような気がしたのだけれど、

きっと彼は猫がいるから寂しくなんかないのだろうとも思った。

 

そして、なぜだかエリオットの絵本が思い出された。

『袋鼠親爺(ポサムおやじ)の手練猫(てれんねこ)名簿』T・S・エリオット アクセル・シュプラー画 柳瀬尚紀訳 評論社

これは、『キャッツ』の原作になった絵本。

猫たちの個性が描かれた作品である。

ひと言で言えば、かなり難解な印象を受けた絵本だった。

猫の名前をひとつとっても、様々な意味合いを反映させてあったり、

韻をふんだ英語の言葉遊びを日本語に上手く置き換えてあったり、

エリオットが込めたと思われる深い意味を、

掬い取ろうとしているからか、

一般的な絵本とは随分と異なる大人でも難しい絵本だと思う。

 

同時に、この絵本を読み終えた時に物語とは別の事を思った。

物事とは完全には理解できないものなのだよ、

すべては想像に託されているのだよ、と。

それはどこか今回見たマルタ島の世界観も同じで、

猫の心も、

人の心も、

完全に理解できるものではない。

すべては想像の範疇に有ることをあらためて気づかされた気がした。

だから、

ひとりぽっちな雰囲気を放って見えたマヌエルの心を知るのは、

他の誰でもない、マルタの猫なのかもしれない。

 

「ボンちゃん、動物園のゴリラは、私には多くの場合、寂しそうに見えるけれど、本当は寂しくはないの?」

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2011.02.19

宿命

「宿命論」という言葉を辞書で調べると次のようにある。

「世の中の出来事は、すべてあらかじめそうなるように定められていて、人間の力ではそれを変更できないとする考え方。運命論」

 

たしかに人生には、

自分では動かしがたい宿命のようなものがあるように感じる。

 

たとえばこんなこと・・・。

私は祖父に会いたかったけれど、

私が生まれるずっと以前に他界していたから会えなかった。

たとえばこんなことだって当てはまるかもしれない・・・。

ふと思い立ち、そうだ明日イタリアに行こう!

と、そう思っても私は行くことができない、なぜならばパスポートが切れているのだ。

 

後述のケースはパスポートが切れているという物理的な問題とはいえ、

どうあってもイタリアに明日旅立てないことには変わらない。

従って、

自分ではどうすることもできない出来事に直面しているから、

祖父に会いたくても会えなかった事と同様、

ある種の宿命的な出来事にも見えるような気がする。

 

そこで気になるのが、

人生には、どれだけのことが自分で動かせるのだろうか、という事。

人生には大きなシナリオがあって、

動かしがたい宿命の中で生きているようだけれど、

例えば、今、カプチーノを作って飲もうとすれば飲める、

けれど飲みたくないから飲まない、

この辺りを考えると全てが決まっているわけではないように思う。

 

この終わり無き話を永遠に書いていると、

目下、風邪で体調が悪い私は間違いなく明日寝込む事になる。

このケースを考えると、

カプチーノを作って飲めるけれど飲まないケースと同様に、

自分で如何様にも変えられる出来事のように思う。

そう、この作業を止めて早く眠れば良いことなのだから。

 

ということで、今夜はこれにて。

 

「ボンちゃん。ゴリラは宿命について考えたりする?」

 

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2011.02.18

水分補給

風邪による吐き気で何も食べられない時、

お医者さんに行くと点滴をされたりすることがあるが、

以前に医師から、

ポカリスエットを飲むと点滴の代わりになると勧められたことがある。

それ以来、

調子が悪い時や寝不足の時、真夏の水分補給時など、

脱水症状にならないようにポカリスエットを飲む習慣ができたのだが、

水やお湯が飲めない時でもポカリスエットは飲めることに気づいた。

温めて飲んだり、

甘すぎると感じるときはPerrierで割って飲んだりしている。 

風邪をひいた時は、暖かくして水分補給に心がけてね!

 

ポカリ┗(^o^)┛オススメ!

 

「ボンちゃん、ゴリラは風邪ひいて食欲が無いとき、どんなものなら口に合うのかな?」

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2011.02.17

思念にピョン?!

魂話に火がついたので、類似した話を続けてみたい。

祈祷師という人たちが存在する。

そういう人たちの中には、

霊感があり秘術を学びつつ霊力を高め、

特殊なご祈祷が可能になる人がいる。

 

私は子供の頃、

縁あって祈祷師がいるお寺の人達に可愛がってもらっていた。

その流れから、

宗教や御祈祷というものを信じるとか信じないとか関係なしに、

お正月やお彼岸、法事が重なった時など、

人出がいる時に手伝いをするのが普通になっていた。

御墓参りに訪れるお年寄りの方々と接する機会も多く、

年代層が異なる見知らぬ人々と接する環境から、

知らず知らずに学んだことは多かったように思う。

ご祈祷には、宗教問わず全国から依頼者が訪れていたから、

活気ある賑やかな感じのお寺だった。

それでも、

生霊や死霊といったものを祈祷師が本当に祓えるものだろうか…、

と、案外に冷静に見つめる眼をずっと持ち続けていた。

当時は、霊魂の存在の有無について特に考えもしなかったけれど、

ご祈祷の中には、

自らで命を絶とうとする人を引き止め、自宅に戻るように仕向けるというのがあって、

御祈祷を終えると祈祷師は、

三日以内には戻って来るから大丈夫だと言うのである。

私が知る限り、大概のケースにおいて戻って来るから、それは確かに不思議だった。

 

交通安全の御祈祷などは、他のお坊さんが行ったりもしたが、

そういった深刻なケースの御祈祷だけは、

何人かの御坊さんが共に参加して行うが、

実際に効力をもたらすことができるのは、

霊感があるとされた、今は亡き、そのひとりの祈祷師だけだった。

どんなことがどのように行われているかは知る由もなかったが、

夜、すべての部屋の電気を消して御経三昧で行われていた。

子供心にも、さすがに念が行き来する世界など覗き見する勇気はなかったし、

同じ空間にいるのは遠慮したい思いだったのを覚えているが、

その御祈祷の際には、

家出した人が普段使っている、ご飯茶碗が必須だった。

ご飯茶碗がなぜ必要なのだろうか…、

と、そのご飯茶碗が果たす役割というか、御祈祷のメカニズムに興味を抱いたが、

特に尋ねることも無く歳月は流れ、

そういう人達との縁も時と共に次第に切れていき、

ご飯茶碗のことも忘れていたのだが、 

つい数日前のこと。

博識な友人から興味深いことを聞いたので記してみたい。

何かの話の流れから、先に記した話を、ふと思い出して、

ご飯茶碗について、そのメカニズムを知らないかを尋ねてみたところ、

彼は次のように分かりやすく説明してくれたのである。

 

そういった御祈祷のメカニズムは、

祈祷師が、その人の思念に入り込み、

自殺を思い留まらせるように思念に問いかけるというもので、

思念に入り込むためには、

勿論それ相当の修行なのか霊力なのか、その辺は詳しくは分からないが、

いずれにしても必要となるのが該当者に愛着のあるグッズで、

従って、毎日使われていたご飯茶碗が御祈祷に必須なのでしょう。

喩えるならば、警察犬が犯人の臭いを嗅がされて探し求めるようなものです、と。

 

ハッ!ナルホド...Σ( ゜Д゜) シネン ニ ハイルノカ...!

いや~それにしても、

その場に居ない人の思念の場所を、“愛着”を頼りに探し当て、

ピョンと、その人の思念に入って未練や雑念をふりかけて、

ヨシッ!これで思い留まって家に戻るな…、

という手ごたえまで得て、帰って来るなんて、

なんとも摩訶不思議な話である。

 

「ボンちゃん、ゴリラは、誰かが自分の思念に入ろうとしたら、完全にシャットアウトできる?」

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2011.02.16

アマチュア無線局TMSI

どちらを支持する?

肉体とは別に魂が存在し、

魂に意志や思考が宿っていると考える唯心論。

その対極にあるのが霊魂や精神などの存在を認めない唯物論。

と、聞かれたら、やっぱりロマンがある方の唯心論だな・・・、

などと今朝の東京の曇り空を見上げて、ふと思ったりした。

というのも、

亡き祖母が、早くに亡くなった夫(私の祖父)に会いたくて、

その昔、イタコの所に行ったことがあると聞いたからなのだ。

感想を聞くことが出来なかったのが残念な限りだが、

そこで気になるのが、

死者の魂とコミュニケーションが取れるとされる人たちの存在である。

やはり、すぐに思い浮かぶのはイタコだと思う。

 

話がちょっと大きなスケールになるが、 

宇宙が生まれるきっかけになった爆発、ビッグバン説から考えれば、

人、動物、植物、家の外壁やTVや毎日座っている椅子、

東京タワーや目下建設中のスカイツリー、お正月の鏡餅といった、

地球に存在する全ては勿論のこと、

この宇宙に存在する万物は、

みんな元々は一つだったということになる。

それならば、

通信方法と、現実にし得る力を持つ人や物が実在するようになれば、

大概のものとはコミュニケーションが取れるようになるかもしれないと思えてくる。

例えば、私が魂を込めて作った羊毛フェルトのカバ君とも話が出来るかもしれない。

なぜならばカバ君制作中に私が宿した魂があるだろうからネ…。

微量であっても、魂が放つ気配、

それが何なのかは知らないが、電磁場みたいなものが放たれ、

互いの周波数のようなものを合わせることで、

言わば、糸電話的に魂とコミュニケーションが可能になるのではないか…。

それら万物と通信が可能になる時代が来るかもしれないのう~と思えてくるのだ。

 

聞いた話では、

超常現象を多く体験する場所では、

強い磁気が発生している傾向があるというから、

魂や幽霊は、何かを放っているのかもしない。

まあ、強い磁気が発生している場所だと脳のシナプスが誤作動が起きるから、

それで超常現象を体験するのだと、唯物論者に言われるような気もするけれどネェ…。

それもそうか…という気もしてくる。

 

いや、いや、私は唯心論を指示する派だった。

国際宇宙ステーションにアマチュア無線局ARISSが開局しているように、

国際魂ステーションというのができて、

アマチュア無線局TMSI(TAMASHIIの略)なんかが開局される時代が、

いずれ訪れるのではないかと、そんなふうに思うのだ!

 

c(>ω<)ゞ ニヒッヒ...ロマンティックデショ?

 

「ボンちゃん、そういう時代が私の存命中に訪れたら、一番にゴリラと周波数を合わせるからね!」

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2011.02.15

楽しく暇つぶし

街に出ると、

自分が人間ウォッチングをしていることに気づく。

例えば、

電車内という限られた空間には、

異なる容姿の人々が、

座り方も立ち方も寄りかかり方も居眠りの仕方も様々で、

目の前に年配の方が立った時なんか、

席を譲るという思考回路を持ち合わせていないような人も居れば、

俳優顔負けの清々しい笑顔でサッと気持ちよく席を譲る人が居る。

暇つぶしの方法も色々で、

圧倒的に多いのは耳にイヤホーンをして携帯ピコピコとか居眠り、

最近ではAndroid OS搭載デジタルオーディオプレーヤー利用者も見かける。

車内の一割ぐらいは、本、雑誌、新聞やマンガを読んでいる人と、

熱心に勉強している人かな・・・、まあ乗る電車の種類によって雰囲気は異なるが、

東京メトロ内だと、そんな感じである。

それらの割合に比べたら、

そういった光景をつり革につかまりながら眺めている、

私のような者は極少数派でアナクロニズムに陥っているのかもしれない。

 

こうして楽しく暇をつぶそうとしているのは、

なにも人間だけでは無いと思うのだ。

街ですれ違う猫だって、

少々の時間は私に付き合ってニャァーニャァーと言ってくれていても、

ふらりと私から去って行くし、

目を閉じでお昼寝タイムに入ったりする姿を見ていると、

少々の時間を私を相手に遊びたかった、

言い換えれば楽しく暇つぶししたかったのだと気づかされる。

 

前々からそんなふうに思っていたら、

今日、ミシェル・ドゥ・モンテーニュの言葉が目に留まった。 

「私が飼い猫と遊んでいるとき、私が暇つぶしをしているのではなく、逆に猫のほうが私を相手に楽しく暇つぶしをしているのではないかどうか、誰が知ることができるだろう。動物たちは、自分たちのコミュニケーションの様式をもち、そして、人類に教訓を与える存在なのである」(『環境の思想家たち 古代-近代編』ジョイ・A ・パルマー編 須藤自由児訳 みすず書房より)

そうそう、四柱推命では、

人生には運気の流れがあると考えるのだけれど、

もしもそれを肯定視し、

目指す何かがあるならば、

チャンス到来の運気が訪れるまで、

いかに楽しく建設的に有意義に暇をつぶすかということになるから、

その楽しく暇つぶしするというのは、

別の言い方をすれば、

それは日々の過ごし方であり、

電車の中での暇のつぶし方も変わってくると思うのである。

 

「ボンちゃん、動物園のゴリラは、マチガイナク人間ウォッチングして、楽しく暇つぶししてるでしょ?!」

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2011.02.14

雪だるまは雪が好き

2011年2月14日22:02分、

夕方から降り出した雪で、

今、東京の街は真っ白に染まりつつある。

灰色の空からは雪の欠片が途切れることなく落ちてくる。

二度と戻ってくることのない、

この日この時に私が何をしていたかというと、

ひとりで雪だるまを作っていた。

 

カラダは雪。

帽子は人参。

おめめは舞茸。

お口は玉葱。

おててはセロリ。

ケーキ皿にのせて家に連れて帰ってきたら、

物の数分で寂しそうな顔をし出した。

なんだか可愛そうになって外に連れ出したら嬉しそうな顔をした。

その時の写真。

タイトル 「雪だるまは雪が好き」

Pupazzodineve1

雪だるまは、

誰よりも雪が似合う。

外で遊んでおいで。

と言ったものの、誰かに連れて行かれはしないか、心配なのである。

 

「ボンちゃん、ゴリラは雪が降った日は、足跡をつけて遊ぶ?」

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2011.02.13

ぬくもり

萩原朔太郎の詩↓「閑雅な食慾」を読んだら、
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1769_18739.html

 

なぜだか、

ハートレーの詩の一節、

「過去はすべて他国である」という言葉が思い出された。

 

そうしたら、ふと思った。

記憶に立ちのぼる、ぬくもりと、

未来を想像する時に立ち上る、ぬくもり、

このふたつの世界観を頼りにしながら、

私は今を生きているような気がしてきた。

それはもしかしたら、

私の心が、心にある二つの世界を拠り所にして、

今居るこの世界、日本で生きていることなのかもしれない。

と、そんな気がしてきた。

 

「ボンちゃん。動物園のゴリラは、想像の世界を拠り所にして生きているように見えるね」

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2011.02.12

黒猫

黒猫と言えば、

「黒猫が前を横切ると不吉なことが起きる」と、

幼い頃に、誰かに言われて信じていたことがあった。

いつの頃から記憶に無いが、次第に気にならなくなったけれど、

もしかしたら、「魔女の宅急便」のジジの登場が大きく影響し、

恐れに繋がる固定観念が崩壊したからなのかもしれない。

固定観点を壊すのは、

映画の力は絶大だと思うのである。

 

イタリアでも「黒猫は悪魔の手先」などとされていた流れがあって、

「黒猫は縁起が悪い」とされていた。

今でも動物愛護団体が「黒猫の日」などを通して、

迷信を信じる人が行う猫への残虐行為を止めようと、

黒猫のイメージアップに力を注いでいるという。

そう言えば、

2005年のイタリア映画「イタリア的恋愛マニュアル」の中にも黒猫が出てくる。

必死に就活をしているが、どれも断られてうまく行かない、23歳のトンマーゾ(シルヴィオ・ムッチーノ)が、その日も2件の面接をして断られ、仕事、お金、彼女もいない・・・なんでこんなについていないんだ・・・そんな辛さを抱えてバイクで家に帰る道すがら、黒猫が前を横切ってキレルシーンがある。

その時、トンマーゾの前には女の子(カルロッタ)がバイクで走っていたが、黒猫が通り過ぎた瞬間に、徐にバイクを止めた。

トンマーゾには彼女が自分に黒猫がもたらす不運をなすりつけようとしているように思えた。

トンマーゾは彼女に向かって怒鳴る。

「キミは、ひどいエゴイスタだ。エゴイスタ!エゴイスタ!」、と。

そこに、黒猫の飼い主であるジュリア(ジャスミン・トリンカ)が家から出てくる。実は、カルロッタはジュリアの友人で、バイクでジュリアを迎えに来たところだったのである。

ジュリアは、カルロッタから騒ぎの有り様を聞き、愛猫が通り過ぎた所を横切るようにして歩き、冷ややかにトンマーゾに言い放つ。

「これでキミは大丈夫よ、あ、でもあなたはダブルで不運を受けたことになるわよ。なぜならば、あの黒猫は私の猫だから」、と。

このセリフが私はなんとなく好きなのである。

その時、既にトンマーゾはジュリアに一目ぼれをしていた…。

 

ということで、

ちょっと長くなったが、

この映画でも黒猫の汚名返上がそそがれているのである。

ムッハー!!(*゚∀゚)=3 クロネコカワイイ!

 

「ボンちゃん、ゴリラがクロネコを手にのせていたら、絵になるね」

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2011.02.11

gatto nero

友人の古のCDを聴いていたら、

幼い女の子が歌うイタリア語の曲が流れてきて、

あれれ・・・、これは日本で知られる「黒猫のタンゴ」。

そう思ってよくよく歌詞を聴いていたら、

最後まで「黒猫のタンゴ」という歌詞は出てくることなく、

「Volevo un gatto nero」(黒猫が欲しかった)を繰り返すのである。

その歌詞が面白かったので要訳を記してみたい。

 

♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;: 

君にワニをあげる代わりに、君は私に黒猫をくれる約束だった。

それなのに、君が私にくれたのは白猫じゃないの。

君にキリンをあげる代わりに、私に黒猫をくれる約束だった。

それなのに、君が私にくれたのは白猫じゃないの。

君にゾウをあげる代わりに、私に黒猫をくれる約束だった。

それなのに、君が私にくれたのは白猫じゃないの。

君に動物園をあげる代わりに、私に黒猫をくれる約束だった。

それなのに、君が私にくれたのは白猫じゃないの。

君は嘘つきだから、もう遊ばないよ。

私は、黒猫、黒猫が欲しかったの。

まあ、黒でも白でも貰っておくことにするけれど、

君にはなんにもあげないよ。

♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

 

You Tubeに1969年、Vincenza Pastorelli(4歳)が歌うのがあった。

http://www.youtube.com/watch?v=N1Fb90onsv0

「黒猫のタンゴ」は元々はイタリアの曲で、

原題は「Volevo un gatto nero」(黒猫が欲しかった)というらしい。

 

でもちょっと寂しかったのだ。

この子・・・よっぽど黒猫が欲しかったんだなあ。

と、その純粋な思いに心を寄せていた私は、

「黒でも白でも貰っとくことにするけど、君にはなんにもあげないよ」

と、そのひと言に心に隙間風が吹いた。

なぜだか若干、残念な気がして、

信念がないというか、その逞しさ抜け目の無さに複雑な思いがした。

最後まで、

「Volevo un gatto nero」って言って欲しかったのに・・・。

 

o(`ω´*)o クロネコガホスィ !

 

「ボンちゃん、ゴリラはクロネコが好き?」

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2011.02.10

「Caruso」

友人が貸してくれたIl DivoのCDに心地よさを覚えて聴いていたら、

Lucio Dallaの曲、「Caruso」が流れてきて驚き、

解説書を見てみたら、

その曲は、オペラ史上最も有名なテノール歌手といわれる、

エンリコ・カルーゾ(1873-1921)をテーマに作られた曲なのだということを知った。

これまで何度も、Lucio Dallaが歌う「Caruso」を聴いてきたけれど、

知らなかったからちょっと嬉しい。

 

念のために説明しよう。

Lucio Dallaは、イタリアのシンガーソングライターで伝説の歌手のひとりである。

「Caruso」は、1986年にLucio Dallaが発表した曲。

10年以上前になるが、初めてLucio Dallaが歌ったその曲を聴いた時、

寂寥感が迫りくる歌声に、

心が一瞬にして空洞化したような感覚に陥ったのを覚えている。

この曲は、Luciano Pavarottiが歌ったことでも有名だが、

他にもアンドレア・ボチェッリや、フリオ・イグレシアスなど、

様々なジャンルの歌手が歌っている。

Pavarottiが歌うと壮大な迫力が生まれ、

スケールの大きさに感動するけれど、

個人的には、あの迫りくる寂寥感こそが、

あの曲に最も合っているような気がして、

やはり作ったご本人が歌う「Caruso」が私は一番好きなのだ。

 

Lucio Dallaの歌声は独特で、

他のアップテンポな曲であっても、

歌声に深い陰を感じるからか、

埋まらない寂しさを抱えて、

日々欠けゆく月を見ているような印象を受ける。

その独特さが彼の最大の魅力のように思うのだ。

 

Lucio Dallaの「Caruso」、聴いてみて!

 

「ボンちゃん、ゴリラにも、Lucio Dallaの歌声は心地よいんじゃないかと思うんだけど」

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2011.02.09

Kissの音

街には小説が溢れている。

喫茶店に入ると、

耳をそばだてるともなく隣の人達の話が聞こえてきてしまう。

それらはみんな私小説だと思うのである。

 

昨日も、喫茶店に入った時に、こんなことがあった。

ガラス窓越しに通りを眺められる席に座ろうとした時、

最も壁寄りに壁の方に身体を向けて一人の女性が座っていた。

隣の席も、その隣の席も空いていたから、

私は一つあけて座るか詰めて座るか一瞬悩んだが、

店内が混雑していたので、一つあけずに詰めて座ろうとした。

と、その時、背後から「エクスキューズミー」と声をかけられたのだ。

振り向けば、

二人分のホットチョコレートがのったトレーを持った、

20代後半ぐらいの男性がいた。

そして、私が座ろうとしたその席にトレーを置いたのだが、

壁を見つめている女性は振り向きもしない。

どうやらケンカ真っ最中の恋人同士のようだった。

 

その後、男性は女性の気配を気にしながら、

話しかけることなくホットチョコレートを飲み終え、

このままでは埒が明かないと思ったようで、彼女に話しかけ出した。

そこで彼らが韓国人であることが判明したのだが、

韓国語を学んだことの無い私には話の内容がサッパリ分からない。

気配の様子から察するには、

おそらく、彼が、彼女の気に入らないことをして、

彼女は頑ななまでに心を閉ざし、立腹中。

彼の言い分は、自分のしたことなんか、

日頃の、君の好き放題な気ままな態度に比べたら、

取るに足らないちっぽけなことじゃないか…、と、そんな事を言っている感じかな…、

そんな彼女に凝りていると言いたげで、

やや開き直りながら自分の言動の正当性を理屈で説明しているように見えた。

言わば、理路整然たる弁明を実践しているようだった。

 

それに対して彼女はというと、

彼女のために彼が買ってきた、目の前にあるホットチョコレートを無視して、

断固たる決意を持ってして、その実践を拒否していた。

その後、時折、彼は息を荒げたが、なんとか冷静さを保とうと努めつつ、

理屈詰めの押し問答が続いている内に、

次第に彼の方が彼女の頑なさに辟易した様子になった。

 

そこで私はひとつ教訓を得たのである。

愛する人を失いたくなければ、

すれ違いが生じた時に、

いつまでも我を張って頑なに不満をぶつけていてはいけない、と。

 

その後、ふと気づけば気配が一変していた。

彼女が彼の顔をしっかりと見て話をしている。

完全に彼女が優位な立場にいる様子に見えた。

その時初めて彼女の顔を見たのだが、

可愛らしく美形で、

やや甘やかされて育った末っ子かな…、

お洒落の仕方から見て経済的には豊かな家庭に育ったお嬢さんといった印象で、

《貴方でなくても、私は別にいいのよ…他に好きだと言ってくれる人はいるし…》、と、そんな気配が醸し出されているような気がした。彼も背は高くないけれど身なりもよく優男の美形なのだけれどね。綺麗好きそうで、几帳面そうで、しっかりしている感じで、面倒見がよさそうな感じで、長男かな…。

まあ、それはいいとして、

先ほどまで強気だった彼が、慌てた様子で、体の向きを完全に彼女の方に向け、彼女の身体に膝を寄せ、手を握り、熱心に説得を試みているようだった。

全てが想像の域だが、たぶん、もう別れましょう、と、実際には別れるつもりはない彼女が言いだし、別れたくない彼は、ビックリクリクリして急に焦り出したのだと思うのだ。

 

そして、又、暫く私は自分のやるべき事に没頭していたところ、

あまり喫茶店では聞き慣れないような微かな音が耳に届いた。

この音質…どこかで聞いたことがあるような…と、

その響きの方に目をやってみると、

ふたりはKissをしていた。

 

その後、何度か、微かなKissの音を喫茶店に響かせて、二人は去って行った。

彼の腕が彼女の肩にまわされ寄り添うように歩く二人の姿が、

喫茶店のガラス窓越しに見えたから、

傍目からはお似合いに見えるカップルは、

異国の地で別れずに済んだようである。

メデタシメデタシなのだが、

ひとつ気になった事があった。

彼女は、最後までホットチョコレートに口をつけなかったのである。

残された、冷めきったホットチョコレートが、

二人の未来を暗示しているように私には思えてならなかった。

 

そして私はもうひとつ教訓を得た。

愛する人を失いたくなければ、

すれ違いが生じた時に、

理屈はさて置き、甘いKissで語るべし、と。 

 

「ボンちゃん、オーストリアの詩人、リルケも詩の一節で言っていたね、《キスはあれやこれやを語ります》って」

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2011.02.08

「?」 その3

文士芸術家村…マップ
http://www.kitabunka.or.jp/kitaku_info/pdf/sansaku.pdf

文士芸術家村…田端に移り住んだ芸術家、文士及び著名人たちhttp://www.kitabunka.or.jp/kitaku_info/rlink/summary-ichiran#kosugi

 

大龍寺のすぐ側に室生犀星の四番目と五番目の家跡がある。

事情があったのか、敢えて引っ越したのか、

犀星は田端内だけで五つの家に住み替えている。

今は近代風な家が立ち並び、

八十年前の当時とはだいぶ様変わりしているとは思われたが、

さすがは見定めて五回目に選んだ場所だと納得できるほど爽やかな感じがした。

 

方向音痴な私が地図を逆さに見たりしながら、

標識も出ていない家跡を探し当てるのは難儀だった。

結局、三時間半テクテク歩き四十三の家跡を周ったのだが、

道に迷って土地の人と思われし人たちに、

直木三十五の家跡はここでしょうか?直木賞の…、と、通りすがりの人に聞いても、

「直木? エッ? 誰?」

ポプラ坂はどこですか?板谷波山の家跡に行きたいのですが。と聞いても、

「ナニ?ポプラ坂ァ~?」

何を聞いても頓珍漢な返答ばかりで、

文士にも芸術家にも、自分の人生には関係ないといった印象の人ばかりだし、

家跡の標識が無いからわかり辛いことわかり辛いこと。

 

駅前に立派な田端文士村記念館があるのに、

その存在すらしらないような人ばかりに遭遇していたら、

頭の中にも心の中にも「?」がイッパイになってきたのだが、

最後の目的地とした芥川龍之介家跡までガンバロウ!

と、心新たにキョロキョロして自力で探していると、

邪魔ナンダヨ、とタイヤをならして超スピードで走り去る車に驚かされたり、

「なんか用ですかッ?」と明らかに怪しまれている冷やかな声のトーンが背後から、

オロオロと「?」が心に押し込まれてくるばかりだった。

 

やっと辿りついた板谷波山家跡は、

寂しいことに工事中で、

さら地にブルドーザーが止まっていたから更なる無情観と無常観が押し寄せてきた。

けれど、それまで四十近い家跡を隈なく歩いて来て、

このエリアに住めるならば板谷波山家跡が一番住みたい場所だと思ったのも「?」だった。

ここから見るあの夕焼けの色も、

波山さんが五十年程前に最後に見た色とは違うのだろうなあ…と思ったりして、

当時はさぞかしこの町も文士・芸術家で賑わっていたのでしょうね…と、

土に向かって呟き、

最後の目的地芥川龍之介家跡に向かったのだった。

 

これほど、ひとつの町をじっくりと見つめたことはないが、

町というのはブロックごとに微妙に気配が異なっていることに気付いた。

地形による陽の当たり方や風の通り方が少なからず影響していると思われるが、

そういえば、猫は“気”の心地よい場所にいると聞いたことがある。

それを証明するかのように、興味深かったのは、

偶然なのか必然なのか、

最も心地よいと感じた板谷波山家跡と、そのすぐ側に位置する林芙美子家跡で、

一匹づつ猫が出てきたことなのである。

文士・芸術家村だから、神楽坂みたいに猫がイッパイいるのかと想像していたのだが、

散歩中の犬は見かけたけれど猫はそれまで見なかったのである。

林芙美子家跡で会った猫は、急用があるのか小走りながらニャァーと挨拶をしてくれた。

そんな心地よい声かけをしてくれた人間は、その町に、その日いなかったから、

そのニャァーのひと鳴きが心に染みた。

 

そして、最後の目的地である芥川龍之介家跡を訪れた。

第一印象は、

その日歩いてきたどの家跡よりも妙に静かだということだった。

“気”が止まっている感じがして、何もかもが静寂の中にあって停止している。

“静か”という言葉ひとつでは足りないぐらい、静か過ぎると思った。

“静か静か静か静か静か静か静か静か静か…”、

と、“静か”を増やしてみると、

逆に、賑やかさを感じるから、やっぱり“静か”はひとつがいいらしい、ニヒヒッ!

 

こうして「?」多き旅は終わったのだった。

 

「ボンちゃん、ゴリラも猫と同じように“気”の流れに敏感そうだね」

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2011.02.07

「?」 その2

板谷波山の御墓を訪れた私は、

念のために名前を名乗り、数日前のお礼を言い、

来る途中で買った和菓子を墓前に手向けて、

「今の世は、こういうものが出回っており、私が今興味を持っているのはこういう物です」

などと言いながら田端文士芸術家村マップを見せたり、

たまたまバッグに入っていた2本のイタリア映画、桂三枝創作落語のDVDと、

寺山修二の本『幸福論』を掲げて見せたりしたこともじゅうぶんに「?」な事だった。

 

その墓所には他にも、

俳人の正岡子規、

講道館四天王の一人横山作次郎、

宮廷音楽家のE・H・ハウスの御墓があって、

ひときわ特徴のある墓石に立ち止まってみると、

天皇陛下のチェロの進講役だったという清水勝雄さんのお墓だと刻まれてあった。

 

ご挨拶だけでもさせていただこうと思って回ってみたら、

それぞれの場所で気配が明らかに異なっているのを感じて、これもかなり「?」だった。

 

正岡子規の墓前周辺はひっそりしっとりとした感じがして、

横山作次郎の墓前周囲は、水戸黄門の助さん格さんが走りぬけて行きそうな所の気配、

清水勝雄さんのお墓は今にもクラッシックが流れてきそうな気配で、

恐ろしく気になったのは、

E・H・ハウスの御墓の周辺から始まる奇妙な気配なのだ。

急にゾクゾクと鳥肌がたってきて、

その奥に繋がる数段の階段を上るとそれが更に強まった。

そこには小さな広場があって、

どなたが永遠の眠りについているのか分からないのだが、

普通の墓石とは異なった、いくつもの同じような形をした細長い石碑が立ち並んでいた。

階段からその広場に向かう途中から全身に鳥肌が立ち、

どんどん背中がゾクゾクしてきて、

長く居てはいけない気がしたから石碑に近づくことなく足早に元来た階段を下りたのが、

そこから遠ざかると、そのゾクゾクが次第に消えたのも「?」だった。

 

その場所以外は、よく晴れていて青空の元に清々しい風が吹いているのに、

そこだけはなぜか闇への入り口、陰の領域のような、そんな気配だった。

 

階段を降りる途中、咄嗟に、早く波山さんの所に行った方が良いと思ったのも「?」で、

波山さんなら、私を取り巻いた見えない何かを鎮められるという確信を持てたのも「?」、

そして、急ぎ足で墓石の前に行ってみると、

想像したとおり、最初に感じた同じ温もりがあって安心し、

階段周囲で感じた怖さが嘘のように消え去ったのも、本当に「?」なのだった。

こうして大龍寺を後にして、

文士芸術家村への散策に向かったのだった。

 

つづく。 

「ボンちゃん、ゴリラには、人間に見えないものが見える?」

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2011.02.06

「?」 その1

「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求むべし」

と言ったのは江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉だった。

 

この素晴らしき言葉が思い出された時、

私は、ある意味で、まさに古人の跡を求めていた。( ゚Д゚)y=3=3=3

というのは、

数日前、偶然に訪れた東京にある田端文士村記念館で、

文士、芸術家たちの古の住居跡が記された地図を入手した。

そうしたら、文士・芸術家たちが好んで住んだ町、田端を歩いてみたくなった。

思い立ったが吉日、早速、訪れたからなのである。

 

まず、大龍寺で板谷波山<いたや はざん>のお墓参りをさせていただいた。

私は、いま巷で流行りの“墓マイラー”ではないのだけれど、

ここ数日、ちょっと奇妙な不思議体験をしているので、それを含めて綴ってみたい。

 

私は板谷波山という人物がこの世に存在していた事実さえ、

数日前に偶然に訪れた田端文士村記念館に行くまで全く知らずに生きていた。

そこに行って初めてその人に出逢ったのである。

と言っても、この世から姿が消えた後の板谷波山に出逢ったのかもしれない。

…あの時、確かに、板谷波山に出逢えて良かったと心から思ったのを覚えている。

こんな経験をしょっちゅうしている不思議ワールドに棲む“不思議ちゃん”族には、

私は属していないと自分では思うのだけれど、

こうして語ると、

かなり“不思議ちゃん”な印象を受けてしまうかもしれない。

 

私自身、板谷波山という人物がどういう人なのか全く知らなかったから、

ご紹介を兼ねて、ここ数日で調べて知り得たことをまず初めに記してみたい。

板谷波山(1872-1963)は、

いま風に言うなら、完璧な美を追い求めたアーティストとして生きた陶芸家だと思う。

器の写真から得た印象は、

超完璧主義者が創り上げた研ぎ澄まされた作品。

奥ゆかしさの中に、優雅さ可憐さ官能性が光っていて、

白いヴェールの向こうで神々しい美の神のような存在が静寂を醸し出している感じがした。

 

人物像は調べれば調べるほど、あったかい。

それはそれは立派な偉大なる愛情深い御方で、

心も生き方も遺した作品も素晴らしい。

数々の賞を受賞し陶芸家として初の文化勲章受章者となるが、

1960年には人間国宝の候補となったが思うことあって辞退している。

田端には、工房を築いた1903年~没年1963年まで在住。

最後の作品『椿文茶碗』を作ったのは、没年、波山91歳の時だったというから、

陶芸への情熱は命尽きる時まで途絶えることはなかったようである。

2004年に波山の生涯を描いた『HAZAN』(監督:五十嵐匠、主演(波山役):榎木孝明)が映画化されている。

 

私が自分でも「?」なのは、

私は陶芸家として日本の星になろうとしているわけでもないし、

私が生まれる前に亡くなった、

何の繋がりも、縁もゆかりもない波山という人の胸像を見て、

というよりも、胸像に宿っていると思われる魂なのか愛なのか区別がつかないが、

それらに出逢って感じ入り、心を救ってもらったという感覚を得たことである。

それで早速、お礼を述べに御墓参りに足を運ぼうと思って一人で行ったことも「?」だし、

方向音痴の私を見えない力が誘導してくれたかのように、

すんなりと、気付けば大龍寺の御墓に辿りつけてしまったのも「?」だった。

ちなみに親族のお墓参りだって、家族と一緒にしか行ったことがないというのに…。

その後、「?」はまだまだ続く。

墓前に立ってみると、

まるで私のことを前から知っている、目上の、とても親しい関係性の人に、

「よく来たね」と言われた気がした。

すごく歓待されているような温もりを覚え、

微笑んでくれているような暖かさに包まれたのを感じたのである。

普通に考えれば、見ず知らずの人の御墓なのだ。

それなのに、

ずっとそこに居られるというか、

離れがたいような気がしてくるのが物凄く「?」だった。

 

この続きは後日に。

 

「ボンちゃん、ゴリラは、実際にはこの世で会う機会の無かった生きもの魂を感じることってある?」

 

板谷波山についての詳しいことは下記の板谷波山記念館のHPに載っている。

http://www.city.chikusei.lg.jp/data/hazan/about_hazan/about_hazan.html

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2011.02.05

お?(; ̄ロ ̄lll)

ゲーテだって、

決して特別な“超”能力を持った、

超人のような生きものではなくて、

普通の人と似た感覚を有するひとりの人間だったんだなあ・・・、

と、感じさせてくれような『心やさしき人々に』という詩を見つけた。

それがなんだかチョッピリ嬉しい。

 

『心やさしき人々に』

 

詩人は沈黙することを好まない。
あまたの人々に自分を見せようとする。
賞賛と非難とは覚悟の前だ!
だれも散文でざんげするのは好まないが、
詩神の静かな森の中でわれわれはしげしげと
バラの花かげに隠れて、こっそり心を打ち明ける。

わたしが迷い、努め、
悩み、生きたことのくさぐさが、
ここでは花たばをなす花に過ぎない。
老いも若さも、
あやまちも徳も、
歌ともなれば、捨て難く見える。

    (『ゲーテ詩集』高橋健二訳 新潮文庫より)

 

「詩神の静かな森の中でわれわれはしげしげと」

「バラの花かげに隠れて、こっそり心を打ち明ける」だなんて・・・、

なんてロマンティックな絵になる表現をするのだ!

それも・・・たった42文字で、

そっくり思いが伝わってくる。

 

お? (; ̄ロ ̄lll)

やっぱり・・・、

“超”詩的能力を持った超人じゃないか・・・。トッホッホ

 

「ボンちゃん、ゴリラは存在自体が詩的な感じがするんだよ」

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2011.02.04

板谷波山の気配に…。

(昨日の話のつづき)

 

田端文士村記念会館の中を歩いていたら、

目が釘付けになった胸像があった。

もっとも、目が釘付けという言葉は適切ではない。

どう考えても、話しかけられているのを感じたのである。

 

暖かくて深い眼差しに素朴さと気品があって、

深さが計れないほど奥深い愛情を抱いて見つめてくれているようで、

たぶん、人生の間に、

あんなに深い愛情をもってして自分を見つめてくれる人は、

そうは出会えないと瞬間的に感じた。

そして、不思議だったのは、

私が今、心に抱えている悶々とした思いを見抜き、

その特別な気配、かけがえのない笑顔をもってして、

解決に導く何か、

明確には分からないのだけれど、

何かを言葉に敢えて置き換えない形で、

所謂、気配でそれを伝えてくれているように感じたのである。

そういう不思議体験をしたら、

私の心はなんとなく何か掴み、

自分で作り上げたチョモランマの如き高き壁を乗り越え、

前に進み出したのだ。

 

その人物こそが、

陶聖の板谷波山(いたやはざん)(1872-1963)という人物であることを、

恥ずかしながら、私はその時初めて知ったのだった。

胸像をつくったのは、

波山を生涯の師と募った彫刻家の吉田三郎と記されてあった。

 

板谷波山は田端の町をこよなく愛し、

墓所も田端の大龍寺にあるという。

そうだ、今度、お墓参りに行こう。

 

「ボンちゃん、ゴリラが表現に目覚めたら、文士芸術家森ができそうだね」

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2011.02.03

田端文士芸術家村

今日、なんとなく山手線の駒込駅で降りた。

なぜだかわからないけれど、

前から一度、

線路沿いに駒込から田端間を歩いてみたいと思っていた私は、

田端がどういう地であるかも知らないまま、

ただひたすら田端の駅を探しながら歩いていた。

駅の近くに着いたら立て札があった。

見れば、

たった今歩いてきた場所が、

かつて文士村であったことを告げる地図だった。

田端高台通りにお蕎麦屋さんがあって、

それを背にして見て左斜め前がサトウハチロウ家跡だったり、

同じお蕎麦屋さんの裏手に室生犀星家跡があったり、

目がヒィェー(((゚Д゚)))と驚いていたら、

もっともっと家跡の名前が記されてあって、

萩原朔太郎、芥川龍之介、林芙美子、野口雨情、岩田専太郎、直木三十五、小林秀雄、竹久夢二、堀辰雄、菊池寛・・・などなど、

もう、モヒャ━━((゜Д゜Uu))━━!!!!!!となってしまった。

それでキョロキョロしていたら、

JR田端駅前の建物に、

田端文士村記念館と記された建物があって入ってみたら、

田端は大正から昭和の初期にかけて、

文士芸術家村となった町だったのである。

 

つづく。

 

「ボンちゃん、ゴリラは、志が同じ仲間といると、相乗効果がある?」

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2011.02.02

老いたるえびか…。

本などを読んでいると、

好きな詩人の名をあげている人がいる。

私の場合、この人はこの詩という傾向があるから、

どの詩人にも惹かれているような気がするけれど、

ある写真を見たのがきっかけで興味を持った詩人がいる。

その写真は、

猫と一緒に陶器製の火鉢にあたっている写真だった。

猫が火鉢の縁に両手をのせていて詩人と向き合って座っている。

詩人は猫の手が火傷をしないように、

火鉢の中の炭を自分の方に移動させている様子が写されてあった。

 

その人が室生犀星。

写真に惹かれて詩を読んでみたら、

惹かれる詩がいくつもあったのである。

中でも印象に残ったのが、

遺作の「老いたるえびのうた」である。

室生犀星という人が遺した、

人生最後の足跡の悲しみを、

切実に感じるような詩だと思う。

 

「ボンちゃん、ゴリラは、老いる自分を自然に受け入れられる?」

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2011.02.01

道の途中で。

何かを一生懸命やっていると、

この人のようには到底なることは自分はできない、

そう気づく瞬間があったりすることはないだろうか。

もしかしたら、それは勘違いなのかもしれないけれど、

それは自身の判断で決断だから致し方なく、

人によっては、

この道だったら自分がその道の星になれると真から感じる、

そんな道があると信じて新しい違う道を探しに人生の旅に出たりする。

数日前から玉ログ記事でふれている『桂三枝創作落語』DVD付録の小冊子によれば、

桂三枝さんは、正にそのひとりなのである。

小冊子には三枝さんの落語観が綴られてある。

どういう経緯で、

どういう思いを抱きつつ創作落語をつくっているのかなどが詳しく記されてある。

三枝さんは桂枝雀さんを、

二十世紀最大の上方落語家だったと思っていること。

桂枝雀さんに出会い、

これは古典では到底追いつけないと感じて創作落語への道を歩むことになったことなど。

三枝さんが心から語られた言葉を意訳するのは失礼すぎて出来ないから、

詳細は、是非とも小冊子を手にして、ご本人の言葉から感動していただきたいのだが、

ご自身の喋りの持ち味が、

古典落語には向いていないと気づいたことも創作落語の道へのきっかけの一つだったり、

大衆芸能である落語というものの存在意義を見つめた上で、

誰もこれまでしなかったことをして、次の時代に遺そうとしていることなどが綴られてある。

ちなみに三枝さんは、

昭和39年から昨年までの間に、なんと220作品の創作落語をつくっている。

古典落語という巨大なものに抵抗しつつ、

屈することなく、

挑む思いで創作落語を作り続けて戦い続けている。

世の中には、熱く生きている人を小馬鹿にしたり貶したりする人が残念ながらいる。

斜に構えて冷めて生きている人に情熱を削がれるようなことを言われると、

情熱の火が涙で消えてしまったような錯覚に陥ったりする。

けれど、

おんなじこの世の中に、

熱く夢中で生きている人がいることを知ると、

またポッと情熱の火が心についたりするものだと思う。

人の希望を削ぐようなことを言う人は、

多くの場合、

自分が出来ないことに挑戦する人への嫉妬なのだと思う。

了見の狭いちっぽけな心の持ち主ということなのだろう。

いろんな人がいろんなことを言うし、

憧れの人が憧れらしからぬ人に変貌したりするのがこの世の特徴でもあるから、

その道の星になろうとしている道の途中で、

泣きたくなることもあると思うけれど、

そんな時は、三枝さんのように熱く生きている人を思い出して、

勇気を再び取り戻して欲しいと思う。

人は命尽きるその日まで、道の途中にいるんだね。

「ボンちゃん、ゴリラ界では、やっぱり情熱的な方がモテル?」

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