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2011.06.09

情熱が風と一緒に…。

誰かと接した時、

「反応のテンポ」が自分とは全く違うと感じることがある。

例えば、メールの返事が物凄く遅い人に会うと、

少なからず私はそう感じる。

そういえばこんなことがあった。

昨年だったかな?…元旦に新年の挨拶メールを知人に出したら、

一週間以上経って返事が届いて、その遅さと内容に驚いた。

「暮れに大掃除もしないでダラダラしてたら家族に怒られ、お正月は掃除でバタバタしてたから返事が遅くなった…」、と、そんな内容だったと思う。

彼女は、独身を謳歌しているような専業主婦。

おそらく、相手にしたら他愛も無いことなのだろう。

考えてみれば、

お正月だって別に普段の日の延長線上にあるだけのことだし、

人は新年を特別がってお祝いするけれど、

新しい日は毎日始まっているわけで、

それだったら「新日、おめでとう」って毎日メールするかと言えば、

まず誰もしない。

昨日が今日に変わっただけだと言われれば、それもそうなのだ。

けれど、その返事が届いたタイミングを思うと、

機を逸した、いや、“気”を逸しているように私には思えて、

売れ残ったクリスマスケーキを、

さも用意していたかのように12月27日頃に渡されたような…、

そんな寂しさを呼んだ。

それと同時に心に隙間風が吹き、

心の一部が失望に似た色に染まった気がしたのだ。

 

彼女の世界観と私の世界観は物凄く遠いところにあって、

嬉しいと感じる気持ちや、

悲しくて傷つく事柄やポイントもズレていたりもするんだろうな…。

活動のテンポ、行動のリズム、物事を決める速さ、

歩く早さや食事する早さなんかも全然違っているんだろうなあ…。

…ということは分かち合える事が無いのか…、

なあーんだ…そうだったのか…と、思った。

それが残念な寂しい思い込みだと頭では分かりながらも、

もう連絡を取るのはやめよう…、

と、そんな思いを払しょくすることはできなかった。

その後、私の心の変化など何も知らない彼女は、

これまで通りにメールをくれていたが、

私が距離を示したことで距離が距離を呼び、

今では計り知れないほど遠い距離のある間柄となったように思う。

 

メールというコミュニケーション手段は曲者だと思う。

メールを「見たのか」「いつ見たのか」、

返事が直ぐに来れば分かるが、そうでなければ永遠に分からない。

返事が「来た」「来ない」「いつ来たか」、

そうしたことも信頼関係の構築には重要だったりするが、

その辺のことは人それぞれで、感じ方が違うことだってある。

そんな宙ぶらりんな状態を下支えしている要因は、

反応のテンポ、活動のテンポ、行動のリズム、生活パターン、

文章力、表現力、理解力の差異、

相手を思いやるという想像力などなど、

そうした全てが宙ぶらりんを混ぜっ返す。

 

そんなだから誤解が失望を招き、

相手は全然気づいていないというのに、

ひとりで腹を立てていたり、

ひとりで傷ついていたりして、

万が一、誤解が解けたとしても、

埋まらない溝を見た思いは残り、

また次に揉めた時には、

o( ̄ ^  ̄ o) プィッ!ヤッパリ、もう無理っ!

と、関係性に埋めがたい亀裂が入る可能性が高いように思うのだ。 

メールは簡単に人間関係を崩壊させる。

とは感じながらも、

いつも誠心誠意を込めた文章で返事をするというのは大変。

心を込めた文書を書くには時間がかかるから、

忙しければどうしても手短な文章になる。

人は文章から心を感じるから、

単刀直入な内容のメールが届けば素っ気ない人だと思うばかりか、

時には感じが悪いと言う印象を持つだろう。

その人に文章への拘りや美学でもなければ難しい。 

 

ひとつのメールが、波紋を投じ、疎遠、絶縁へと向かうことがある。 

たとえ理屈では相手を理解できたとしても、

これまでと違って相手への情熱は、

雲を追うかのように流れて行くものだろう・・・風と一緒に。

 

このジレンマを解消するスベは未来のメール界にあるのだろうか?

 

「ボンちゃん。ゴリラは傷つきやすいから、子孫繁栄が危ぶまれているのかもね…」

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