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2011.06.20

末っ子的思考?!

横たわる亡き骸に会うと、

目の前に、人がいるのに、いない、と思うことがある。

いるのに、いない、

それは心におさめがたい違和感で空虚を感じる瞬間でもある。

そうした思いを亡き骸の表情から感じる時、

肉体から魂が抜け出た後なのだろうか?

ふとそんなことを思うことがある。

一度見たら心に刻印されることになるその表情は、

「もう現実的には会うことができない」という事実をつきつけてくる。

この先、嫌というほど味わされる分かり切っていることを、

あらためて通告されたような思いにかられる。

その瞬間、

悲しさ切なさ辛さ虚しさ悔しさ、

そうした負の感情が一気に心に押し寄せてきて、

無情さと人の命の儚さを思い知らされる。

こうして生きていることが普通のことではなく、

ただ単にラッキーな連続に偶然居合わせているだけで、

それはもしかしたらすぐに途絶える可能性がある…、

と、そんなことを思い出したが最後、

心は重くなり恐怖心に似た感情が芽生えて倒れそうになる。

 

人によって違うのかもしれないが、

いるのに、いない、を感じた時、

私にはそうした感情が芽生える。

だから、お葬式の最後の別れの時が特に辛い。

最後に一目、顔をみたい、ずっと見つめたいと思いながらも、

足元にお花を手向け、

表情は想像するに留めるようにしてしまう。

 

だからできることなら、

亡くなって直ぐに亡き骸に会うのではなく、

・・・亡くなってからずっとずっと時が流れて、

遺された方に心の整理が少しできた頃に会えればいいのに…、

と思ったりもする。

いや、でも、永遠にその表情は知らずに、

生きている時の表情だけを心に留めておきたいという思いもある。

 

愛するならば、生きている顔、命途絶えた顔、

その全てを見守り、送り出してあげることなんじゃないかな…。

と、誰かに言われそうな気もするけれど、

いるのに、いない。という思いをすると、

耐えがたい辛さに、

心が寂寥の冬景色になってしまって、

暫く季節が移り変わらなくなってしまうのだ。

そこで私は思った。

愛する人を見守り送り出すと、その辛さを味わうことになる。

従って、

愛する人に見守られて送り出されればいいのだ。

ということは、

私の愛する人や、

これから愛することになる人は、

みーんな私より先に死んではならない事になる。

と、そんな贅沢な思いが心に満ちてしまうのは、

私が末っ子だからだろうか…。

 

「ボンちゃん、ゴリラは見送るのと見送られるの、どっちが辛い?」

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