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2011年7月

2011.07.31

諦められない人 page1

人生が巡り、

やっと出会えた…と思った人に会った時、

その相手は修道院に入ることを決めてしまっていた…。

まだ揺らいではいるようでも決断を変える様子はない。

お互いに強く惹かれあっているというのに。

 

なぜだか、そんなやり取りを想像してしまう。

もしもあなたがこの状況に置かれたとしたら、

この時、何を言い、どう接するだろうか…?

私なりに考えてみているのだが、

思いのピースが、いまひとつ絵にならない。 

これ、かなり手強いシチュエーションだと思うのである。

こんなことを考え出してしまうのは、

夏なのに秋風に吹かれているせいなのだろうか…。

 

今生でふたりが出会い、

一刻一刻過ぎゆくこの瞬間を、

共に過ごすことのできる時間は限られている、

それを共にできる幸運さを私は話すだろう。

夜空の花火が綺麗だと思えるのだって、

掛け替えのない人と見上げられるからだと話すだろう。

でも、相手は嬉しいというばかりで、

心の深部には届いていないよう。

掛けたい言葉も次第に飲み込むようになってきてしまい、

複雑になる思いを何とかシンプルにしようとしていた時、

相手が次のようなことを言ったとしたら……。 

 

「いつかまた会えるから、惹かれ合うものは必ずまた会えるから」

その言葉の深い意味が直ぐには理解できずに黙ったまま思う。

気付かされたのは、

相手が自分との関係性に終止符を打とうとしているということ。

容赦なく相手の言葉が続く。

「会えるのは直ぐにではないかもしれないけれど、1世紀とか2世紀先とか…。次に会える時には、別れの恐怖に押しつぶされず、愛し合うことのできる、強い心をもっていると思うから…」 

 

その時、どんな言葉をかけることができたら、

離れていってしまうことを覆すことができるのだろうか?

なんとしても諦められない人なのである、

その人だけは。

つづく

 

「ボンちゃん。ゴリラは、諦められない時、どう接する?」

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2011.07.30

『冬の風』

ここのところ、秋雨が降っているような東京。

本当は、毎日、夏のはずなのに…。

詩をつくってみた。

 

『冬の風』

 

未知なる 愛する人よ

あなたは今 どこを旅しているのでしょうか

わたしは今 あなたの知らない所にいます

ベンチに座り  碧い空を眺めています

風が頬を 撫でてくれました

強すぎず 弱すぎず

乾きすぎず 湿りすぎず

少し冷たい 冬の香りする澄んだ風が

心のひだに 触れました

風はすぐに 旅立ってしまいました

するとその時 柊が揺れて呟いたのです

ユートピアの在り処を 知っているよと

少しかすれた 優しいあたたかい声でした

柊はすぐに 黙ってしまいました

 

未知なる 愛する人よ あなたなのでしょうか

冬の風に言葉をのせ 柊に語らせたのは

 

未知なる 愛する人よ あなたに届くのでしょうか

冬の風に言葉をのせ 柊に…でもどうやって

 

柊の知る ユートピアの在り処は

未知なる 愛する人よ 

あなたの居場所なのでしょうか

 

 

「ボンちゃん。ゴリラは未知なる人を探したりする?」

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2011.07.29

記憶…赤ちゃん

赤ちゃんは、

産道を通過した記憶を消してしまうのではないか?

という憶測話を数日前に綴ったが、

人は、いつから記憶を持つのだろうか?

私の古い記憶を母に話したところ、

その出来事は私が8ヶ月の時であったことが判明した。

ということで、

私には8ヶ月時の記憶がある。

 

私は、今でもあの不快感を覚えている。

穏やかに眠ろうとしているのに、

誰かが私の足に、

ザラザラとモゾモゾとしたような、

正体不明の何かをのせるのである。

ものすごく嫌で、

必死に両足を駆使して蹴って退けたのだが、

すぐさま、それらはまた私の足の上にのせられた。

私は負けずに、そのザラザラモゾモゾを蹴り続けた。

こんなに嫌がっているというのに…なぜこんな仕打ちを…。
それにしても、しつこい。やめてくれーっ!

と、心の底から思った。

私は戦いを挑まれているような気がした。

絶対に負けるものかと思って、必死に蹴った。

この不愉快い極まりない状態を何とかしなければ・・・、

そう思って闘い続けた。

側にいる誰かは、

必死になってザラザラモゾモゾを蹴る私の姿を見て、

笑っていて、楽しんでいるように思えた。

それが悔しくて、たまらなかった。

やっとのことで、

ザラザラモゾモゾを退かすことに成功したと思った私は、

これで眠れる…と眠りに落ちていったのを覚えている。

 

これが私の最も古い記憶である。

母の説明によれば、

その誰かは母で、季節は真冬。

私はベビーベッドで目を閉じて眠っているように見えたという。

すぐに布団を剥いでしまう私の足は冷たくなっていて、

風邪をひかないようにと思って布団をかけ直すと、

布団が足に触れなくなるまで必死に布団を蹴っ飛ばしていたらしい。

 

母の説明と私の記憶にはズレがなかったが、

あの時、私は眠ってはいなかった。

自分の年齢が8ヶ月だということも、

ベビーベッドの中で目を閉じていたことも知らなかった。

近くにいる誰かが母であることも、

心配してくれて、

最後まで見放すことなく守ってくれたことも分かっていなかった。

 

結局、母と私の布団闘争にどう幕が下りたかというと、

足首から下に布団がかからなければ、

布団蹴っ飛ばし活動が生じなくなることに母が気付き、

足首から足先に布団がのらないように布団をかけ、

一件落着したという。

あの時、母が私に呆れて放置していたら、

風邪をひき、

今、こうしてこの世にいることは叶わなかったのかもしれない。

 

まさに、「親の心、子知らず」。

 

「ボンちゃん。ゴリラは生れた時の記憶からある?」

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2011.07.28

記憶 page7(完)

(つづき)

Claudio Baglioniの答えと私の答えは、

なんだかとっても、かけ離れているように思え、

なんだかとっても、寂しい気分になったのである。

やはり、メガスターと、

メガスターとは程遠い位置に生きている私とでは、

こんなにも違うものなのだろうか…、

そんな気分にもなってメランコリックな気分のまま、

昨夜は雨音に慰められながら眠ったのだが、

朝になったら、

ちょっと面白いことに気づいて、

憧れの人との間に共通点を見出すことができたようで、

ちょっぴり元気がでてきたのである。

 

復習しよう。

問い: 時から取り戻したいものは何か?

Claudio Baglioniの答え:記憶

私の答え:未知の記憶

 

このふたつの答えは、一見、正反対で全く違うようだけれど、

時から取り戻したいものが、

今、ここに無い蜃気楼のような世界観なのである。

見ている方向が異なっているだけのことなのだ。

 

見ている方向を図にしてみよう。

過去の記憶の世界観 ← Claudio(現在)

                 私(現在) →未知の記憶の世界観 

 

現在が異郷で過去が故郷のような、

その感覚を求めるクラウディオ。

現在が異郷で未知が故郷のような、

その感覚を求める私。

 

共通点は、正に、ノスタルジアなのだ。

全然違うのに、全然違わない。

そんなふうに思えたのは、

夏だというのに、

どこからか吹いてきた北風のお陰なのだろうか…。

 

おわり

 

「ボンちゃん。ゴリラは夏の北風から何を感じる?」

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2011.07.27

記憶 page6

(つづき)

こんなふうに、

出会いというのは望む望まないに関係なく、

タイミングさえ合えば会うことになっているようにみえる。

勿論、努力でカバーできる出会いもあるが、 

努力とは無関係な次元の、

それを宿命というのか何というのか、

いずれにしても“時”が介入していて、

自分の努力ではどうしようもない作用が働いている。

 

言い換えれば、

“時”が合わなければ、誰にも会わないし、会えないのだ。

私たちは、“時”の流れに身を任せるしかない存在なのである。

 

「時から取り返したいものは何か?」という問いに対する、

私の答えは、

「未知の記憶」。

出会えれば絆が結べる人なのに、

時がズレていることによって、

このままでは会えない人がいた、

また、この先もいるだろう、と思うのである。

自分のいなかった過去の時代、

この世という現在の時代、

自分のいなくなった後の未来の時代、

同じこの世にいる人たちの時間的ズレも含めて、

散らばっているがために同じ時間を同じ場所で共有できず、

会えずじまいになることを克服したいのである。

それを叶えるには、

“時”の組み合わせを変え、

時間的宿命のズレを一致させることが不可欠だと考えるのだ。

 

人が絆を結び合うことができれば奇跡が生まれる。

出会ってよかったと思える人に、

もっと多くの人が出会えるようになれば絆が生れるだろう。

そうすれば、

みんな心が豊かになって、

心が満たされて、

人が人に完全に絶望するようなことも無くなるに違いない。

そうなれば世の中はもっと平安で平和になるだろう、と思うのだ。

 

と、ここまで書いてみて気づいたことがある。

Claudio Baglioniは、

多くの人と深い絆を結んだ人なのだろう。

なぜならば、

もしも、この先、私の人生において、

多くの人と深い絆を結ぶことができたとしたら、

そして、その時、

「時から取り戻したいものは何か?」と聞かれたら、

間違いなく私は次のように答えるだろうと気づいたから。

「記憶」、と。

 

でも、今の私の答えは、「未知の記憶」なのである。

 

つづく。

 

「ボンちゃん。ゴリラは過去、現在、未来、どれを一番多く見つめる?」

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2011.07.26

記憶 page5

(つづき)

メガスターになれば、

会う人の数も膨大になる。

出会う人の数が増えれば、

絆を結べる確立はあがるものだろうか。

いったい、ひとりの人間が生きている間に、

絆を結ぶことができる相手は、

どれほどの数いるものなのだろうか。

その数にどれほどの個人差があるものなのだろうか。

私にとって、

絆を結ぶことは憧れである。

 

この世には人がたくさんいるが、

会うことができる人は、ほんの僅かのように思う。

そのほんの僅かの中から、

絆を結べる相手の数は、さらに極々僅かのように思う。

 

自分がまだ生まれていない時代、

自分がこの世にいる時代、

自分があの世に行った後の時代、

これらの3つの時代に人はいる。

時代に人は散らばっているのだ。

きっと、

自分がまだ生まれていない時代と、

自分があの世に行った後の時代にも、

出会うチャンスさえあれば、

絆を結ぶことができたはずの人がいるのではないかと思うのだ。

 

分かりにくかもしれないので、例をあげてみたい。

 

たとえばこんなこと。

もしも坂本龍馬と会うチャンスさえあれば、

絆を結び合うはずだった、遅居 海(おそい かい)という人物が、

2011年に生まれたとしよう。

でも坂本龍馬は1836年生まれだから、

双方とも日本に生まれ育った日本人でありながら、

坂本龍馬と遅居 海は会うことが叶わず絆が結べなかった…。

そう、遅居 海は、生れるのが遅すぎた。

或いは、坂本龍馬の生れるのが遅居 海よりも早すぎた。

遅いかい? 遅いよ!という感じ。

 

たとえばこんなこと。

Claudio Baglioniは、古代ローマの哲学者、セネカの思想を好む。

同じイタリア人としてイタリアに生まれているのに、

生まれた時代がズレていたことによって、

会うことも叶わず絆を結ぶことも実現化されず、

クラウディオがセネカが世に遺した本を見つけ出して、

おそらく…ふたりは本を通して絆を結ぶに至っている…。

 

たとえばこんなこと。

望まずとも近所に近所の人がいて、

家から一歩外に出て、

近所の人が庭掃除なんかして外にいれば、

「おはようございます、暑いですね」なんて言い合ったりする。

別に会いたいと思っていないのに、

家から出る両方のタイミングが何故か合ってしまい、

しょっちゅう会ってしまうといったケース…。

 

つづく。 

「ボンちゃん。ゴリラは、絆に憧れる?」

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2011.07.25

記憶 page4

(つづき)

「時から取り戻したいものは何か?」

Claudio Baglioniの答えは「記憶」だった。

この答えを受け私も考えてみた。

 

この世に生まれ、

絆を結ぶことができる人というのはどれだけいるものなのだろうか?

人間は精神的な存在として生まれているから、

誰かと喜びを分かち合って、

絆を感じること、即ち、幸せを共感することは、

人として生まれて最高の幸せを手にしたことになると思う。

 

出会った全ての人と絆を結ぶことができたらいいと思う。

それが実現化されれば、

日本に起きている多くの問題、

たとえば…人間関係の希薄化も止まる。

年々上昇する自殺者数も、限りなくゼロに近くなるに違いない。

世界だってもっと平和になって誰もが平安を手に入れるだろうに。

しかし、残念ながら靴ひもを結ぶように、

結び方さえ覚えれば結べるというものではないのが、絆。

滅多に結べないのが絆というイメージが私にはある。

絆へのイメージは個人の経験が作用することだと思うから、 

メガスター、クラウディオが、

絆に対して、

目下のところメガスターに程遠い位置で生きている私と、

同じイメージを持っているとは考えにくい。

いつか会う機会があったら是非とも聞いてみたいが、

ここでは憶測を逞しくして話を進めてみよう。

クラウディオの答えた、

「記憶」「忘れてしまった人の名前、日付…」から憶測すると、

おそらくクラウディオは、

人として生まれて最高の幸せを手にすることができた実感があり、

自分の歩んできた道に納得がいっているのだろう。

その日々に心から感謝し、

その日々を共に創り上げた人々に心から感謝しているのだろう。

だから、忘れてしまった人の名前の全てを思い出したい。

日付を覚えておくことは、

ファン、バンドメンバー、スタッフといった、

自分とかかわった全ての人を思い出すことだからなのだろう。

 

つづく。

 

「ボンちゃん。ゴリラは絆を感じた時が最高に幸せ?」

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2011.07.24

記憶 page3

(つづき)

例えば、

ヒトは産まれてすぐに泣く。

嬉しければケラケラと笑って産まれてくるだろうことを思うと、

生まれる体験というのは、余程、過酷なものに違いない。

しかし、

自らを振り返ってみても、

生まれる産道の途中で味わった苦痛は全く覚えていない。

お産の時間は14時間とか、

長い人なら30時間はかかるというから、

注射のような一瞬の苦しみではない。

狭い産道を無理無理通るという過酷な体験は、

想像を絶するほどのもので、

それはそれは長い時間に感じられたはずで、

その時の記憶は強く刻まれていてもおかしくないように思う。

 

人には防衛本能があって、

たとえば、受け入れ不能な辛い記憶を消す作用が起きたりする。

もしかしたら赤ちゃんは、

産道の記憶を消しているのではないだろうか? 

産道を通った時に、

そのあまりの辛さに赤ちゃんは思いこむのかもしれない。

辛い、辛すぎる。

助けて欲しいと訴えているのに誰も助けてくれない。

なんて無慈悲なのだ。

酷過ぎる。

この極めてむごい扱い。

もう…絶望だ。

一瞬にして、

さあ、これから頑張って生きていこうと思った勇気が萎えてしまい、

そうした抱えきれない思いに対し、

自己防衛本能が働き、

その記憶を綺麗さっぱり抹消してしまっていたりして…。

記憶の消去により、

今日を生きる勇気、明日をも生きる勇気を取り戻していたりして…。

 

年月が経てば、

少しずつ色んなことを忘れていく。

忘れたくない記憶も忘れたい記憶も。

一秒ずつ年老いていく宿命を背負うものにとって、

記憶が薄れていくことは、

老いの実感を減らす最良の自己防衛でもあるように思うのだ。 

 

つづく。

「ボンちゃん。ゴリラは老いを実感して悩む?」

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2011.07.23

記憶 page2

(つづき)

確かに、言われてみればそうなのかもしれない。

幸せを感じた瞬間のことを克明に覚えていれば、

人生って味わい深くていいものだな…と強い実感が残り、

その後、たとえどんな困難が起きようとも、

それらに立ち向かう原動力となり、

目の前の辛さなんて物ともせず、

命を立つなんていう選択肢は決して生じず、

ただひたすら必死に生きていこうとするものかもしれない…と。

でも、どうだろう。

Claudio Baglioniはメガスター。

たとえば私のような、

目下のところメガスターとは程遠い位置で生きている者とは、

経験の質が全く違うから記憶の質もかなり違う。

クラウディオの記憶にあるものは、

自分が創造した歌と音楽のために、

何万人ものファンが殺到し、

広い会場で共に歌い、

感動を共有するという珍事な軌跡の連続である。

彼が自分で行動して、

その軌跡的な瞬間を次々と生み出しているわけなのだが、

それが日常茶飯事的に起きている人生自体、

珍事な軌跡であり軌跡の人だと思うのである。

そんなふうに、

常識で考えては起こりえない、不思議な現象のような、

その珍事な奇跡の繰り返しの人生の記憶。

音楽家にとって、

ファンと一体となって歌う喜びがもたらす感動、達成感、

それを超える輝きが果たして他に存在するだろうか。

どう考えても、

忘れてしまいたい記憶よりも、

忘れたくない記憶の方が多いに違いない…と、

おおよそな推察がつく。

 

勿論、クラウディオにだって、

一般人のように忘れたい記憶はあるだろう、たぶん。

いや、無いかもしれないが…、でも、もしもあったとしても、

忘れたくない感動の記憶が次々と上書きされていくわけだから、

忘れたい記憶はどんどん薄れていくのではないか…と思える。

 

一方、一般人は、どうだろう。

個人差はあれど、

目下のところメガスターとは程遠い位置で生きている私には。

忘れたくない記憶よりも、

忘れてしまいたい記憶の方が多いのが日常のような気がする。

更に、人というのは、

辛い思いや悔しい思いをした時のことの方が、

思いのほか、

嬉しかったことよりも数多く覚えているような気もする。

 

そうかと言って、

泣くほど大変な衝撃的な出来事の全てを覚えているかというと、

そうでもないとも思うのだ。

つづく。

 

「ボンちゃん。ゴリラは忘れなたくない記憶、忘れたい記憶、どっちの方が強く覚えている?」

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2011.07.22

記憶 page1

Claudio Baglioniが、

最近のインタビューで、

「時間から取り戻したいものは何か?」と聞かれ、

「記憶」と答えていた。

「人の名前とか、日付とか、幼き頃の事とか…」、と。

 

クラウディオ・バリオーニは、

イタリアで「神の如きクラウディオ」と呼ばれるメガスターである。

神の如きと言われるからには、

一般人には無いと思われる“特別な何か”を放っており、

多くの人がその“特別な何か”を感じるからこそ、

惹かれ、

神の如きと言われるに至っているのだろう。

実際、私も初めて彼の音楽と歌声を聴いた瞬間、

“特別な何か”を感じた。

“特別な何か”を他の言葉にするならば、

…ノスタルジックな情熱、だろうか。

クラウディオ・バリオーニは、

ヴェネツィアに浮かぶ一層のゴンドラ。

歌が音楽が存在感が、

強烈にノスタルジックとロマンティックを伝えてくるのである。

 

クラウディオのように富と名声を手にした人が、

「時間から取り戻したいものは何か?」と聞かれたら、

小麦色に焼けた肌から白い歯を覗かせて、

「若さかな…」なんて言うような気がしないでもないが、

やはり“特別な何か”を感じさせる人の答えは、

“特別な何か”を感じさせてくれるものなのである。

 

自然の摂理から考えても、

光が強ければ必然的に影は濃くなる。

クラウディオにとっての影が何かは想像がつかないが、

今回の答えの奥にあるものは、私にも想像がついた。

と言っても推測の域だが、

強い光、イタリアのメガスター「クラウディオ・バリオーニ」という光、

その光を支えてきた多くの人達がいて、

共に情熱をぶつけ合った特別なたくさんの日がある。

その光を一緒になって強めた、コンサートに訪れたファンがいる。

歌詞、音楽の原点となっていると思われる幼いころの記憶、

そうした光の記憶を詳細に留めて置きたい。

そんなふうに思ってのことなのではないか…と、思ったのだ。

 

つづく。

 

「ボンちゃん。ゴリラは記憶力が物凄くいいんだよね」

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2011.07.21

『音のない海』

詩をつくってみた。

 

 

『音のない海』

 

 

わたしの言葉は 思いを伝えていたのだろうか

わたしの眼差しは 愛を伝えていたのだろうか

わたしの思いは 忘れられない何かとなったのだろうか

わたしの愛は 消えない何かを奏でたのだろうか  

 

あなたはいつも 微笑んでいた

あなたはいつも どこまでも遠いところに向かっていた

あなたはいつも 遥か彼方を見つめていた

あなたは時折 恥ずかしそうにしていた

あなたは時折 困った顔をした

あなたは時折 ノスタルジックな眼差しでわたしを見つめた

 

伝えても 伝えても 伝えても

見つめても 見つめても 見つめても

言葉と眼差しは 

海へといざなわれていたような気がした

あなたは その海でわたしを 切り離した

 

時が止まった 記憶の海に

今が 通り過ぎていき

いつしか記憶の海から 音が消えたころ

あなたは その海でわたしを 繋げた

 

音のない海でひとり 道草をする

水面に浮かぶ 言葉と眼差しをつついてみる

 

わたしの言葉は 思いを伝えていたのだろうか

わたしの眼差しは 愛を伝えていたのだろうか

わたしの思いは 忘れられない何かとなったのだろうか

わたしの愛は 消えない何かを奏でたのだろうか 

 

 

「ボンちゃん。動物園のゴリラは道草できないから、ほんとうに可哀想だよね…、ごめんね。人間は道草できるのに。」

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2011.07.20

濃霧が晴れた日

心頭滅却すれば火もまた涼し

蒸し暑さにメゲズニ、

部屋の窓という窓の網戸を張り替えてみた。

これまでも幾度となく張り替えているのだが、

この作業、思いの外、心が引かれる。

今回は、従来までのグレーから、

クリアーな視界が確保されるというブラックにしてみた。

手順は簡単。

張り替え用のネットを購入し、

同梱されている張り方を見ながら張るだけ。

張り方のイメージさえつかめれば、

一枚張るのに10分もかからない。

業者に依頼した場合、

網戸の張り替えの相場は1枚4000円程度だから、

浮いたお金を使って楽しむのも良し、

見つめて楽しむのも良し。

 

ネットの網目の細かさも色々あって、

最近では花粉も入れない200メッシュというのもある。

メッシュとは、

1インチ(25.4mm)間に、

何本の糸が入っているかという網の目の粗さを表す単位。

24メッシュならば、25.4mmの間に24本の糸が入っている。

従って、メッシュ数が高ければ網目はその分細かいということ。

あまり細かい網目だと、

小さな虫も入ってこられないが、風の通りも悪くなる。

ということで、24メッシュあたりが適当かと思われる。

網戸を張り終え、

ソファに膝をつき窓から外を眺めてみたら、

網戸がグレーだった時は、

濃霧で視界がきかないような景色だったのに、

深い霧は晴れていて、

景色に美しさやみずみずしさが増していた。

以前は気付かなかった雨の雫に目が留まった。

小さな網目の所々が雨の膜で覆われていたのだ、

それがちょっぴり嬉しいのは、なぜなのだろう。

 

以下は網戸の張替え方の流れ。

1.網戸を押さえている押さえゴムをはずす
2.外した溝を掃除する。
3.張替え用のネットをサッシの上に乗せ、枠より少し大きめに切る。
4.押さえゴムを専用ローラーで溝に押し込みながらネットをサッシにはめていく。
※ネットの張り加減が平均的になるように、ネットの引っ張り方を注意すること。
※良い仕上がり状態は、張り終えたネットの上に、専用ローラーをポーンと投げてみて、トランポリンの上で弾む感じになればOK。
5.仕上げは、カッターナイフを寝かせるように当てて余分なネットをカットする。
※この際、カッターの刃はサッシの外側に向けるようにすること。
これで出来上がり。

 

「ボンちゃん、ゴリラ界にも、蚊に刺されるゴリラと、蚊に全く刺されないゴリラがいるの?」

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2011.07.19

不思議な現象

NHKで全8話『下流の宴』というドラマがやっていたのだが、

興味深いストーリー展開の最終回だった。

 

愛する人との結婚を、

身内となるすべての人に祝福してもらいたくて、

そのために必死に努力し頑張った結果、

最終的に、愛する人から下記のようなことを言われたら、

涙は凍りつき、

心に生涯融けることのない氷河が築かれていくに違いない。

価値観の異なる人を愛してしまった時、

人は、ただただ、自分の愚かさを呪い戸惑うしかないのだろうか…。

ふと、そんなことを思った。

 

下記のようなこと↓

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

君が目標に向かって頑張る姿を見れば応援したくなる。
君は猛烈に頑張ったね、そして目指していたものを叶えた。

本当に頑張ったね、スゴイよ。僕も心から嬉しいよ。おめでとう。
けれど、頑張る人達を見ていると、スゴイとは思うけれど、
僕はそんなふうに頑張る人になりたいとは思わない。
そればかりか、
頑張っている人といると、
頑張るつもりのない自分が責められているような気がして嫌なんだ。

君はこれから先、もっともっと頑張っていくことになる。
目標、目的を持って、頑張る人たちを仲間に持つようになるだろう。
頑張るつもりのない僕を、その仲間は馬鹿にしだすだろう。
そして、いずれ君も僕を馬鹿にしだすだろう。
でも僕は頑張らない自分を変えるつもりはない。
頑張るとか、何かを目指すとか、そういうのは嫌なんだ。

君は、頑張ることを良しとして生きていきたい種族。
僕は、頑張らないことに筋を通して生きていきたい種族。

君はあっち側のひと。僕はこっち側のひと。
ほら、僕たちの心は既に、こんなに離れてしまっているだろ。
それを一番感じているのは、君だろうし。 

だから、別れたいんだ。

別れよう。

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

 

「ボンちゃん。誰かを好きになることって、不思議な現象だね」

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2011.07.18

やまとなでしこ

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

おめでとう 女子ワールドカップチャンピオン!

ありがとう なでしこジャパン!

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

「やまとなでしこ」と言えば、

凛として清楚な日本人女性の代名詞。

サッカー女子日本代表の愛称「なでしこジャパン」は、

愛称の公募で集まった2700件の中から選ばれたものだという。

撫子の花と言えば、

大伴家持(717/718―785)は撫子の花が好きだったようで、

万葉集には撫子をうたったものがいくつもある。

…遠い空から、なでしこジャパンの活躍を見守り、

最後まで諦めない戦いぶりの美しさに、

過去に詠んだ一首を思い起こしたのではないだろうか…。

その一首、

うるはしみ我が思ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽かぬかも

大伴家持作 万葉集より

意味:立派で美しいと私が思うあなたは、

    撫子の花のように見飽きることがない。  

 

私が勝手に抱いている「やまとなでしこ」のイメージは、

ひたむき、慎ましやかで、聡明、神秘性、

色白、黒髪、素足、細い足首、うなじが色っぽくて着物が似合い、

ひと粒の涙で男を溺れさせ、迷わせ、狂わせる…、という感じ。

「やまとなでしこ」の気質を諺に喩えるならば、これかな…。

「柔(じゅう)よく剛(ごう)を制す」

意味:柔らかくしなやかな者こそが、かえって剛強な者に勝つ

 

一方、現代の日本人女性の傾向はというと、

ミュージカル「キャッツ」を思わせる長~いツケマツゲに茶髪、

ファッションから振る舞いに至るまでジワジワと西洋人化しており、

いったいどこを探せば、

あの「やまとなでしこ」に会えるのだろうかという感じ。

まあ、色んな美しさがあるから、

それはそれでひとつの個性として良い気もするが、

よくよく考えてみると、

比にならない魅力、太刀打ちできない魅力を放つ、

見飽きることがない女性になることを目指すことが目的ならば、

日本人が日本人を磨くことなのかな…なんて思ったりもする。

と、ここまで書いていて更に気付いた。

愛する人に言われてみたいセリフナンバーワンは、これだ!

 

「見てて飽きないね。」 

  

「ボンちゃん。ゴリラは、やまとなでしこに釘付け?!」

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2011.07.17

ウルトラスーパーうどん

なんだかこの間から、

コシの強い手打ちうどんが食べたいと思っていた。

というよりも、

なんだかこの間から、

手打ちうどんというものを作ってみたいと思っていた。

そこで、

讃岐うどんも水沢うどんもびっくりするであろう、

超コシのあるウルトラスーパー手打ちうどん目指して、

人生初の手打ちうどん作りに挑戦してみた。

材料、分量の配分は色んなレシピを参考に、

水や塩の分量を少し少なめにしたり、

中力粉の代わりに強力粉と薄力粉を混ぜたりしてみた。

結果は大成功。

ただ、

生地を伸ばす作業の際に、

物凄い力と根気を要したので、

滅多に食することのできないコシのあるうどんが、

どうしても食べたいと思う人だけに作ることをオススメしたい。

 

ウルトラスーパーうどんの作り方

材料 

強力粉 275g
薄力粉 225g
水 205g
塩 25g(お好みで調節)
打ち粉 適量

 

作り方

1. 水と塩を混ぜ合わせて塩水をつくる。

2. 強力粉と薄力粉を合わせてふるいにかけボウルに入れる。

3. 2に塩水を一気に注ぎ入れ生地をまとめる。

 ※この時点で、生地はパサパサした状態でOK。

4. 3をビニール袋に入れ、常温で約30分寝かせる。

5. ビニールに入った状態の生地を足で15分踏む。

  花火の柄の夏らしいソックスで踏んでみた。

Udon1

 ※踏む力が強いとビニール袋が切れることがあるので、

   テーブルクロスなどをビニール袋の上にのせて踏むと良い。 

 ※踏み方は、かかとに重心を置くこと。

 ※途中、生地を折り畳むようにして生地を直しながら踏むこと。

6.ビニール袋に入れたまま生地を1時間寝かす。

7.6の生地を再び同じように15分踏む。

8.7の生地を麺打ち台(まな板)にのせて2mmの厚さに伸ばす。

Udon2

Udon3 

9.8を2mm幅で切る。

Udon4

8.多めのお湯で、ゆで時間22分程度。

Udon5

完成

Udon6

一度食したら忘れられない食感となることは間違いなし!

ウルトラスーパーうどん、

是非ともお試しあれ~♪

 

「ボンちゃん、動物園のゴリラはパンを食べるけど、麺類は食べないのかな?」

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2011.07.16

夏の大三角

昨夜は満月だったのだろう、まん丸だった。

お月様の中では、

やはりウサギがお餅つきをしているようだった。

 

夜遅く、天頂付近の空を見上げたら、

強く輝いている二つの星と、

やや明るい一つの星があって、

3つの星を結べば直角三角形だなあ…なんて思った時、

OH!これが「夏の大三角」!と呼ばれているものかと気付いた。

「夏の大三角」とは次のような三角形。

こと座の1等星「ベガ」…角度が90度

わし座の1等星「アルタイル」…角度が30度

はくちょう座の1等星「デネブ」…角度が60度

これらの3つの星を繋げて見てみると直角三角形に見える。

 

「夏の大三角」をイタリア語にすれば、

Estivo…夏の

Il triangolone…大三角形

合わせて Il triangolone Estivo…夏の大三角形

という表現でいいのかな…と思ってチェックしてみたら、

Il Triangolo Estivo…夏の三角形

夏の大三角形とは言わないらしい。

そこで、他の季節の大三角も調べてみた。

冬の大三角 Triangolo invernale/冬の三角形

春の大三角 Triangolo di primavera/春の三角形

これらも大三角形とは言わずに三角(普通サイズ)と言うようである。

と、ここまで書いて更に気になってきたことがある。

日本語での表記は「大三角」であって「大三角形」ではない。

三角を辞書で調べると、

3つの角(かど)があること。また、その形。三角形。

 

もしかしたら「大三角」というのは、

三角形の形そのものよりも、

3つの角自体に重点を置かれたネーミングなのかもしれない。

3つの星を結べば、

角度が巨大な90度

角度が巨大な30度

角度が巨大な60度

からなる三角形が生まれる。

実際に空には線が無いから辺は無いことを考慮すると、

三角形の“形”よりも”角”に重きが置かれているような気もする。

空にある大きな3つの角という意味合いから「夏の大三角」。

一方、

イタリアの方の「夏の三角形」は、

角度よりも三角形の形そのものに重きが置かれているから、

“大”無しで「夏の三角形」なのかな…。

まあ、ベガとアルタイルを結んだ一辺の距離が約15光年だから、

「夏の大三角形」と呼ぶに相応しいとは思うのだが…。

 

「ボンちゃん。やっぱり都会のゴリラの肉眼では天の川は見えないよね?」

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2011.07.15

サボテン…サボキ

サボテンのサボキが3年ぶりに咲いた。

サボキとはサボテンのサボちゃん一家の養子である。

Sabochan20111

サボキとサボポがサボちゃん一家に養子入りしたのは、

確か…6年程前のことだっただろうか。

それから3年経った2008年7月14日、

サボキが初めて花を咲かせた。

絵の具では出せないような、

ひたむきな情熱を淡い黄色に捧げているような色だった。

サボポは天空をかけ巡ろうと上へ上へ伸びるのに夢中のようで、

まだ花は咲かせていない。

Saboki1

2011年7月13日、サボキ、昼間の様子。

上部にふたつ、蕾らしきものが見える。

手前に見える小さなサボテンは、

サボキの初めてのコドモ。

Saboki4

2011年7月14日の朝、サボキは開花した。

3年ぶりの同じ日にちに咲くあたりが、

律儀というか、

美意識というか、

サボテン的美学だと思うのである。

Saboki5

花の手前にある小さな茶色い蕾も咲くのだろうか?

Saboki6

丸くてトゲトゲしたカラダに、

ポッカリ浮かべたような黄色い花。

夜、サボキは花を閉じた。

朝陽が昇った頃、サボキは再び花びらを広げていた。

数日間、サボキは花を開いたり閉じたりするにちがいない。

Saboki3

花びらは羽のようで、

触れても感触がつかみ辛いほどにやわらかい。

楚々とした香りは、

かすかに吹く風の音に似ている。

 

「ボンちゃん。いつも思うのだけれど、ゴリラとサボテンは似ている感じがするね」

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2011.07.14

サボテンの美学

ついにサボちゃん一家が一斉に咲いた。

Sabochan20111

朝、蕾が膨らんでいた様子。

Sabochan20112

夜が更けていき、

満開になり、

それにともない甘い香りも強まっていった。

Sabochan20114

一夜明け、香りは消え去っていた。

太陽がジリジリと大地を照らし始めた頃には、

花は横たわっていた。

無口で一見地味に見えるサボテンだが、

夏のある夜に熱い情熱を見せる。

人知れずひっそりと咲く様に、

サボテンの美学を感じずにはいられない。

月も星も夜回り中の猫も、

みんなその美しさを知っているはず。

 

「ボンちゃん。ゴリラの美学は心を悟られないようにすることかな?」

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2011.07.13

ゴーヤ様

暑さ対策に植えた緑のカーテンが順調に育っている。

Goya1

今朝、10gだったゴーヤの赤ちゃん。

Goya8

まだ黄色い花が咲いている。

この小さな世界観が微笑を誘う。

Goya2

生長の様子を数字で知ろうとゴーヤを計ってみた。

朝、29g → 夕方、38g

Goya4

なんとも興味を惹かれるのがこのツルの巻き方なのである。

ツルがまっすぐにヒョロリと伸びたなあ…と思って見ていると、

風に揺られ旋回しながら巻き付く場所を探しているのが分かる。

たとえばロープのような物体を見つけると、

ツルの先端が少しずつ丸まり出し、

ツルとロープが接触する度に丸みのカーブは増していき、

ついには、

ロープからツルは離れなくなり次第にクルクルと巻き付いていく。

特筆すべき事は、

その巻きつき方のユニークさなのである。

右巻き、少し間を空けて、

左巻き、少し間を空けて、

右巻きといった具合に、

巻く方向が一定ではなく変化している。

恐らく、どんな風雨にも耐えうる巻き付き方なのだろう。

アッパレ!

Goya13

朝、42g → 夕方、61g

おそるべき生長の速さ。

Goya5

ツルを観察していると、

ゴーヤの賢さや生命力の強さに尊敬の念を抱くようになる。

人間は思い通りにいかないと、

直ぐに不平不満を口にするが、

ゴーヤは、

風任せの偶然を活用し、

巻き付く使命を全うしているように見える。

その動きには、

自らの可能性を疑って愚痴をこぼしたり、

落ち込んで自己嫌悪に陥ったりする無益さは皆無。

ただひたすら、ためになるように巻き付こうとしている。

 

ゴーヤ様 あなた様は 立派な御方なのだなあ…。

ゴーヤ様を見習おう!

 

「ボンちゃん。ゴリラは自分の可能性を疑って、ふさぎ込んだりすることってある?」

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2011.07.12

太陽の子分

種を蒔いたのが4月25日。

あれから2か月半が経ち、

ついに向日葵にお目見えした。

Himawari2

咲いた3つのすべてが東の方角を向いていた。

思えば、

稀に違う方向を向いて咲く御方様もおられるが、

毎年、殆どの向日葵は東を向いて咲き誇っていた。

向日葵界の決まりごとなのかと思って調べてみたら、

本当にそう決まっているらしい。

更に興味深いことを知った。

柔らかい蕾の時は、

昼間、太陽の方向を向いていて、

夜間、向きを戻すのだという。

まるで、太陽に忠誠を尽くしているかのようである。

Himawari1

①今朝、下側がら花開いていた様子。

これから咲くぞ!という力強さを感じる。

Himawari11

②夕方、上部にある数枚の花びらを残し全て花開いた様子。

そろって花開くことができた花びらの喜びを感じる。

Himawari3

太陽の花、向日葵は、

太陽の子分なのかもしれないな…。

 

「ボンちゃん。ゴリラは海王星の子分なんじゃない?」

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2011.07.11

さそり座

いったい星座は空にいくつあるのだろうか?

気になって調べてみたところ、

88個あった。

それらは世界共通の星座で国際天文学連盟が決めたもの。

夏の星座を列挙してみたい。

かんむり座 ヘルクレス座 りゅう座 へび座 へびつかい座

てんびん座 さそり座 おおかみ座 こと座 はくちょう座

こぎつね座 や座 いるか座 わし座 たて座 いて座

みなみのかんむり座

 

その一つ、さそり座の話。

さそり座の主星は1等星、赤色のアンタレス。

火星も赤色、アンタレスも赤色、

ふたつが近づいた時に赤さを競って見えることから、

アンタレスの語源は、「アンチ アレス」、

意味は「火星の対抗者」なのだという。

よほど星座に詳しい人でない限り、

広い夜空で星座を見つけるのは難しいように思うが、

お月様を見つけるのは簡単。 

今夜、8時ごろ、南の空の低い辺りにお月様が見える。

そのすぐ近く、

お月様の少し左側、やや下部に、

赤く煌めいている星が見える。

それが、さそり座の心臓、アンタレスである。

さそり座と言えば、

私は、春夏秋冬どの季節でも、

昼夜問わず地上で肉眼で見える、さそり座なのだヨ!

天空のさそり座と酷似している点を挙げるならば、

心臓が赤いことぐらいだろうか…。

ニッヒッヒ!ψ(`∇´)ψアカイ シンゾウ モッテルヨ!

 

↓ プラネタリウムを発見。 NHK 宇宙チャンネル
http://www.nhk.or.jp/space/planetarium/

 

「ボンちゃん。アフリカに住むゴリラは星を眺めながら眠れるけれど、日本の動物園のゴリラは、やっぱり天井を眺めながら眠るしかないんだよね…(´;ω;`)ウウ・・・」

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2011.07.10

via lattea

ジリジリと太陽が照りつける日々が始まり出した。

国立天文台 天文情報センターの情報によれば、

今日の東京の日の出は、4時33分。

月の出は、14時9分。

日の入りは、18時59分。

こうして時間で見てみると、あらためて昼を実感する。

( ̄Д ̄;;

4時33分から18時59分までは昼なんだなあ…、と。

日本の夏は、いつからこんなに暑くなったのだろうか。

夏が来る度に毎年同じ思いにかられる。

真夏、昼間がどんなに暑くても、

夜、空を見上げて天の川があったら、

酷い蒸し暑さの不快感も吹き飛ぶだろう。

けれど、こうとも思う。

もしも、天の川を見慣れていない都会人が、

毎晩、天の川を見られる環境に置かれたら、

それまで持っていた色んな欲が、

天の川の煌めきに吸い取られ流れてしまい、

人間なんかちっぽけな存在なんだ…と思うようになり、

一流大学に入って一流企業に就職して出世したいとか、

自己実現なんかどうでもよくなったりして、

望むことはただ一つ。

愛する人と並んで、

一緒に天の川を見ることができれば幸せだ…、

なんて思いだすような気がする。

そうしたら大量生産大量消費に歯止めがかり、

地球に優しい、原始的な生活に戻っていき、

日本経済は低迷するだろう。

 

そう言えば、

日本語の天の川の語源は、

天空の川なのだろうと想像するに容易いが、

天の川のことをイタリア語で、

via lattea ヴィア・ラッテア という。

via [名詞] 道。

lattea [形容詞] 乳の、乳状の。

語源の由来を調べてみたら、

英語のMilky Wayと同じギリシャ神話由来の名前だった。

その言い伝えは次の通り。

 

ゼウス…最高神、ヘラの夫

ヘラ…最高の女神、ゼウスの妻

ヘラクレス…ゼウスとアルクルメの間に生まれた子

ゼウスは浮気性で、ヘラは嫉妬に苦しんでいた。

ヘラは、

ゼウスとアルクルメの間に生まれた子、ヘラクレスを憎んでいた。

ある日、ゼウスがヘラのお乳をヘラクレスに飲まそうと企て、

眠っているヘラの胸元にヘラクレスを置いたところ、

ヘラクレスがヘラのお乳をあまりにも強く吸ったため、

ヘラは痛さで目を覚まし、

痛みと憎しみのあまりヘラクレスを突き飛ばし、

その際、

ヘラのお乳が天にこぼれたことから、

via lattea ヴィア・ラッテア 

「お乳の道」と呼ばれるようになったという。

メロドラマみたいなドロドロした物語が語源とは…夢がない。

!w(゚o゚)w!ビックリ!

 

「ボンちゃん。ゴリラは天の川を見て何を思うのかな?」

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2011.07.09

ロンベリコ ロンブリコ

「おへそ」と「ミミズ」は似ている。

イタリア語の単語の話なのだが、

おへそ… ombelico オンベリコ。

定冠詞をつけると、l'ombelico ロンベリコ

ミミズ… lombrico ロンブリコ。

ロンベリコにロンブリコ。

たった、一字違いなのだ。

 

日本には、「へそ」をつかった慣用句がある。

例えば、「へそが茶をわかす」。

もしも…ロンベリコ(へそ)をロンブリコ(ミミズ)と言い間違えたら、

「ミミズが茶をわかす」になって面白いのだろうか…調べてみた。 

「君の話を聞いているとへそが茶をわかすよ」

=Le storie che sento da te sono veramente ridicole.

直訳すると、「君から聞く話は本当にばかばかしい」。

残念、ロンベリコ(へそ)という単語は使われていない。

 

じゃあ、「へそを曲げた」はどうか。

もしも…ロンベリコ(へそ)をロンブリコ(ミミズ)と言い間違えたら、

「ミミズを曲げた」になって面白いのか?

「へそを曲げた」=E` diventato scontroso.

直訳すると、「不機嫌になった」。

またもロンベリコ(へそ)は無し。

 

それでは、「彼はへそ曲りだ」はどうか。

もしも…ロンベリコ(へそ)をロンブリコ(ミミズ)と言い間違えたら、

「彼はミミズ曲りだ」になって面白いのか?

「彼はへそ曲りだ」=E` intrattabile.

直訳すると、「彼は扱いにくい」。

これまた期待外れでロンベリコ(へそ)は無い。

 

では、「ほぞ」でいってみよう!

「ほぞ」とは「おへそ」である。

「ほぞを噬む」は、

自分のおへそをかもうとしても及ばないところから後悔するの意。

もしも…ロンベリコ(へそ)をロンブリコ(ミミズ)と言い間違えたら、

「ミミズを噬む」になって面白いのか?

「ほぞを噬む」=Te ne pentirai amaramente

直訳すると、「そのことであなたは後悔するよ」。

これまたロンベリコ(へそ)無し。

 

こうなったら、ミミズで勝負!

「ミミズののたくったような字」という言い方がある。

イタリア語でも「ミミズ」という単語を使って表現するのか?

もしも…ロンブリコ(ミミズ)をロンベリコ(へそ)と言い間違えたら、

「おへそののたくったような字」となって面白いのか?

「ミミズののたくったような字」=scrittura orribile

直訳すると、「すさまじい筆跡」。

ロンブリコ(ミミズ)無し!

 

それじゃ、最後に「みみずばれ」で大勝負!

もしも…ロンブリコ(ミミズ)をロンベリコ(へそ)と言い間違えたら、

「おへそばれ」となって大爆笑?!

「みみずばれ」をイタリア語で何というか?

答え graffio

直訳は「ひっかき傷」。

Oh!Noooo!ロンブリコ(ミミズ)無し!

 

イタリア人にとって、

「おへそ」も「ミミズ」も、

イメージを呼び覚ますものではないらしい。 

ロンベリコにロンブリコ、似ている。

 

「ボンちゃん。ゴリラ語の中にも、似ている表現ってあるのかな?」

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2011.07.08

ベガとアルタイル

七夕の夜になると、

今年は織り姫と彦星は会えるのだろうか…、

と、雨空を見上げることが多い気がする。

昨夜の空も曇りのち雨だった。

会えずに、一年を待つのだろうか、

と、雨の七夕を過ごす度、

それはあまりにも可哀想ではないかと思う。

 

そこで調べてみたら諸説があって、

雨が降れば会えないというストーリーもあるが、

雨が降った時はカササギという鳥の群れが、

天の川に架け橋を渡してくれて再会できるというストーリーもあった。

めでたし、めでたし。

と、思ったものの、

相思相愛のふたりが、

1年の内に、たった1度だけのデートだけという現実を思うと、

再会の喜びは大きいに違いないが、

364日、全く連絡が取れないというのは寂しいに違いない。

 

織り姫と彦星は、

天の川を挟み、

いったいどれほどの距離の離れた所にいるのか調べてみた。

なんと、天の川は広かった。

たとえ天の川の西側にも東側にもインターネットの光回線がひかれ、

メールができたとしても、

その到達速度のイメージは、

人力車にメールをのせて月を目指して運ぶようなものかもしれない。

 

織り姫はベガ。彦星はアルタイル。

ふたつの星の距離は、15光年。

最も早い速度とされている光の速さは1秒間に約30万km。

その速さで会いに行っても会えるのは15年後なのである。

毎年会えるかどうか…どころではないのだ。

 

地球と月、地球と太陽に照らし合わせてみたい。

地球から月までの距離は約38万4千km。

地球から太陽までの距離は約1億5千万km。

これは、地球から月までの距離の400倍に当たる。

 

光は秒速、約30万km。

もしも、

織り姫が地球で彦星が月で、

光の速さを使って会いに行くことができる存在ならば、

2秒かからずに会えることになる。

もしも、

織り姫が地球で彦星が太陽で、

光の速さを使って会いに行くことができる存在ならば、

8分20秒で会えることになる。

 

しかし、織り姫はベガ、彦星はアルタイルなのである。

(´・ω・`)ショボーン

 

「ボンちゃん。ゴリラは15年に一度しか会えない恋人を、ただひとりの恋人として、思い続けられる?」

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2011.07.07

あれからどうしてた?2

〈昨日の続き〉

 

相手は、意表を突かれたような顔をして、こんなことを言うかもしれない。

「僕は、君が元気にしていたか、ただ、それだけを聞こうと思っただけなんだけど…その質問が、そんなに気を悪くすることかな…?」

私は言うだろう。

「気は悪くはしないけれど、その質問に私は寂しさを覚える。私は、あなたに振られたんだよ。振られたってことは、興味ないって、告知されたようなものなんだろう…ていう解釈に、あれからの年月で至ったの。だから、こんなふうに久々に話す機会が生まれた時に、あれからどうしてた?って聞かれると、いいけど、なんか嫌なの」

それに対して、その人は、こんなことを言うかもしれない。

「でもさ、僕、君を振ったわけじゃないから。さっきから、振られたって言っているけど、身を引いただけで、振ってないから」

それに対し、私は、こんなことを言うだろう。

「お千代坊だって振られたって思っているもの!寅さんは身を引いた気でいるけど、お千代坊だって、振られたって思っているもん!」と。

 

確かに、振ったのと、身を引いたのとは、

意味合いとしては大きな違いがあるのかもしれない。

様々な事情が絡んで、相手を幸せにできる立場じゃないから、

相手の幸せを遠い空の元より祈りつつ身を引くという形の別れ。

身を引いた方としては、

振ったわけではないという認識があるかもしれない。

しかし、身を引かれた方は、

結局は、愛する人に振られたという事実が残るものだと思う。

 

そして、

そんなケースにぴったり当てはまる人たちと言えば、

第10作 男はつらいよ「寅次郎夢枕」の車寅次郎と、

幼馴染みのマドンナ、お千代坊(八千草薫)なのだ。

 

寅さんは振られてばかりという印象を持つ人も多いが、

リリーを初め「寅次郎夕焼け小焼け」のぼたん、

「浪花の恋の寅次郎」のふみさん等など、

寅さんに心惹かれたマドンナはけっこういる。

全48作中、お千代坊は特別なマドンナとも言える。

理由は、面と向かって寅さんに告白した唯一の人だからなのだ。

その時の寅さんの様子は、

是非とも映画を観て頂きたいのだが、

お千代坊の告白に対しての寅さんの態度を、

オノマトペからひとつ選ぶならば“フガフガ”といった感じだった。

自分は股旅ガラスの渡世人だからお千代坊に相応しくない、とか、

自分は岡倉先生とお千代坊の恋の架け橋のつもりでいた、とか、

結婚への覚悟も無いしお千代坊を幸せにできる自信がない、とか、

眩しいほどに美しいお千代坊に告白されて想定外過ぎた、とか、

そんな様々な事が寅さんの頭に過ったのだろう、

確かに、あんなに美しい人に突然に告白されたら、

誰もが腰を抜かしかねない。

しかし、告白を受けた寅さんの様子からは、

お千代坊を一生守っていきたい、幸せにしたい、

という気迫のようなものは全く伝わってこなかった。

それどころか、“フガフガ・・・ヘタリ”という感じだった。

その様子に、お千代坊は次のように言うしかなかった。

「うそよ…やっぱり冗談よ」と。

この“やっぱり”という言葉に、

私はお千代坊の優しさと隠せない戸惑いが現れていると思うのだ。

こうしてお千代坊の寅さんへの告白は、

そのまま、ぎくしゃく感が残ったまま幕を閉じた。

その後、寅さんはなんのフォローもせず、

ただ心の中だけで、

お千代坊の幸せを思い身を引く形で旅に出てしまった。

その後、月日は流れお正月がやってきた。

とらやのお茶の間には、

寅さんを抜いたいつものメンバーに加えお千代坊がいた。

とらやの誰だったかが、

岡倉先生との結婚話を拒むお千代坊に、

こんなにいい話は無いんだから…考え直せばいいのに、

と、進言した時、お千代坊が寅さんへの思いを語ったのである。

「私、寅ちゃんとだったらいいわ、でもダメね、ふられちゃったから…」、

冗談だと思って大笑いするとらやご一同さまに、

お千代坊は真剣な顔をして理解を求めるように言ったのだった。

「冗談じゃないのよ」、と。

 

長くなったが、何を言いたいかと言うと、

寅さんはお千代坊の幸せを思って身を引いた気でいても、

身を引かれたお千代坊には、

結局は振られたという事実が記憶に残っているということなのだ。

身を引く人、身を引かれた人、

思いはそれぞれ違うものだと思う。

この延長線上の話として、私は更に、もう一つの思いがある。

 

映画、「男はつらいよ」はタイトルからも分かるように、

マドンナに振られる寅さん、時に、マドンナから身を引く寅さん、

を描くことで「男はつらい」という男性の心の痛みを描いている。

映画では、

寅さんに身を引かれたマドンナが何を思ったか、

その心境が語られることはない。

そこで私はこんなことを思ったのだ。

寅さんは、マドンナを常に肯定し続ける。

寅さんは、マドンナの理解者となり最大の味方だと態度で表明する。

心底から肯定してくれる強い味方であり理解者の寅さんに、

マドンナ達は寅さんの愛を感じる。

寅さんの愛に包まれたマドンナは、

寅さんをマドンナの愛で包もうとすると、

寅さんは身を引いて旅に出てしまうのだ。

それは、マドンナの日常から忽然と寅さんが消えたことを意味する。

私を本当に幸せにしたいと思ってくれたなら、

私を本当に愛しているなら、

寅さんは旅に出なかったのだろう・・・、

私、振られたのね。

と、マドンナは思うだろう。

そんな思いを抱えて生きていくことになったマドンナの心痛は、

計り知れないと思うのだ。

 

年月が流れ、ある日、ひょっこり、

寅さんはマドンナの様子を見に姿を出したりする。

その時、

「あれからどうしてたよ?」って言われたら、

勿論、嬉しいが、マドンナの胸中は複雑なはず・・・と、

私は言いたいのだ。 

従って、あの映画の隠れタイトルとして、

『寅次郎を愛したら、つらいよ』がいいのではないかと思うのである。

身を引く方も、身を引かれた方と同じぐらい、

辛いのかもしれないけれどね…。

 

おわり

 

「ボンちゃん、ゴリラは好きな対象から身を引いたりする?」

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2011.07.06

あれからどうしてた?1

だいぶ年月が経ってから、

告白した人と告白された人と話す機会が生まれ、

「あれからどうしてた?」といった流れの会話が起きたりする。

よくある話ではあるが、

振られた方が自分を振った人に聞くのは自然のような気がするが、

振った方が聞くというのは、

真の思いやりに欠けた行為なのではないか・・・と、

七夕の前夜の夜空を見ながらふと思ったりするのだ。

 

理由は以下の通り。

たとえどんな事情があるにせよ、

愛する人に「振られた」という事実は、

振られた人の心に消えない跡が残るもの。

その悲しくも寂しい衝撃によってできた傷の大きさ深さは、

振った人には到底想像ができないほどのものだと思う。

時の流れに従い涙は消えても、

その記憶はやはり残るものだろう。

 

「あれからどうしてた?」

と、自分を振った人に聞かれた時、

聞かれた側の性格にもよるが、

複雑な思いがする人もいるように思うのである。

まあ、いつもの如くに考えの積み木積みをする私だけが、

そんなことを思うのかもしれないが、

たとえばのこと、

もしも、私が私を振った男性からそう聞かれたら、

私は言うだろう。

「興味本位で聞かないでよ」、と。

もしも相手が「興味本位なんかじゃないよ」と言ったとしたら、

私は言うだろう。

「今さら聞ける立場じゃないけれど、あれからどうしているのか、ずっと気になっていたんだ。もしも聞くことが許されるならば、どこでどんなふうに暮らしていたのか、知りたい。教えて欲しいんだけれど、ダメかな、と、そう聞くのが筋ってもんじゃないの?」、と。

 

「ボンちゃん。ゴリラは振られた時、何を思う?」

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2011.07.05

愛別離苦

別れの「別」という漢字の成り立ちの解釈を漢字源で調べてみた。

《解字》…「別」

会意。冎は、骨の字の上部で、はまりこんだ上下の関節骨。別は、もと「冎+刀」で、関節を刀でばらばらに分解するさまを示す。

 

では、「別れ」の反対語と思われる言葉、

「会う」の「会」の解字をみてみたい。

《解字》…「会」

会意。「△印(あわせる)+増(ふえる)の略体」で、多くの人が寄りあつまって話をすること。

 

ふたつの解字から判断しても、

「別」を克服する方法は「会」を重ねるしかないことが分かる。

頭では理解できても、

気力がついて行かれないという問題がある。

また、

一瞬にして心に闇夜をもたらした「別」への恐れを吹き飛ばす程の、

めぐみの雨のような「会」に遭遇できる確率が低いことも、

人生を重ねる内に学習するものである。

 

でも、

事情があろうが無かろうが、

会った人とは必ずいつか別れなければならない。

そんな無常な世界に私たちは生きていることを考えると、

愛別離苦を恐れて、

誰も愛さずに生きていくことは、

仏門にでも入ることを選ぶ以外は、

悔やまれる生き方なのかもしれない。

ふとそんなことを思った2011年7月5日だった。

 

「ボンちゃん、ゴリラも又、愛別離苦を出会いで克服しようとする?」

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2011.07.04

明けない夜 永遠の夜

愛する人との別れを経験すると、

人を愛することが怖くなる。 

 

愛する人というのは、

心に最大の陽気さを注いでくれる“太陽”だと思う。

それまで日常的に心の光景にあったその太陽が、

忽然と消え去って、

その太陽が2度と昇ることはないといった現象、

それが別れというものだろうか。

「明けない夜はない」という言葉がある。

どんな暗い夜も朝になれば明けるように、

たった今が不幸であっても、

やがて必ず良い時期が来るというような意味だと思うが、

愛する人という太陽が消えた者にとっては、

やはりそれは心に「明けない夜」、

即ち「永遠の夜」を心に持ち続けることなのだと私は思う。

勿論、頑張って、乗り越えることはできるだろう。

愛する人という、強烈な陽の要素である太陽が無くても、

必死に心に陽の気を吹かそうと他の事を引っ張り込んだりして、

それが功を成して、

生きるすべを見出せるようになったとしても、

心が「永遠の夜」を知っていることには変わらない。

誰かを愛すれば、また、朝陽は昇るだろう。

でも、「永遠の夜」の悲しみ、苦しみを知る心は、

愛する人が心にもたらす、

抜けるような青空を見るのが怖い。

それを失った時に心に起きた現象、

真っ暗な心の中で見た恐怖を思ってしまうから。

記憶の残像がもたらす闇がある。

それは明けない夜であり、永遠の夜なのだと私は思う。

どうしても恐れてしまう。

愛する人の永遠の不在を。

 

 

「ボンちゃん、ゴリラは記憶の残像に苦しむことってある?」

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2011.07.03

猫の失恋

数日前に『猫の恋』という玉ログ記事を書いたのだけれど、

家に帰る途中に一匹の見慣れない猫と道ですれ違って、

器量もスタイルも良くて品性を感じる猫で、

近所のクロベエが形相を変えて追いかけている様子から、

クロベエが完全に恋に落ちていることが判明したという話。

そうしたら今日、

新聞の折り込み広告と一緒に、

「猫を探しています」という折り込みチラシが入っていた。

写真を見ると、箱入り息子のような雰囲気の正にその猫だった。

これであの猫は飼い主の元に戻るに違いないだろう。

と、思った瞬間、

イケメンをハントしようとしていた女子猫クロベエが思い出された。

彼が邸宅に戻ったら、

おそらく飼い主は二度と彼を外に出さないだろう。

そうなると、クロベエが彼に再会できる可能性はなくなってしまう。

クロベエの恋は終わりに近い。

 

青空なのに雷が轟くことがある。

クロベエにとって、この恋はそんな恋だろうか。

クロベエは彼の不在に嘆き、

涙し、

涙の記憶に語りかけるのだろうか。

そして、いずれ彼の不在感を愛するようになるのだろうか・・・。

 

「ボンちゃん、ゴリラは愛するもの不在感を愛する?」

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2011.07.02

『乾いた涙の跡に』

「出会いは偶然、別れは必然」という言葉がある。

もしも人生にシナリオがあると考えるならば、

「出会いも必然、別れも必然」ということになる。

詩をつくってみた。

 

『乾いた涙の跡に』

 

乾いた涙 枯れた涙 見えない涙

消えない涙が思考の泉に注がれる

ある涙の乾いてゆく記憶

その涙の乾いていった記憶

消えない涙の記憶との対話がはじまった

 

一秒 一分 一時間 一日 一ヶ月 一年

二秒 二分 二時間 二日 二ヶ月 二年

三秒 三分 三時間 三日 三ヶ月 三年

四秒 四分 四時間 四日 四ヶ月 四年

五秒 五分 五時間 五日 五ヶ月 五年

六秒 六分 六時間 六日 六ヶ月 六年

七秒 七分 七時間 七日 七ヶ月 七年

八秒 八分 八時間 八日 八ヶ月 八年

九秒 九分 九時間 九日 九ヶ月 九年

十秒 十分 十時間 十日 十ヶ月 十年

十一秒 十一分 十一時間 十一日 十一ヶ月 十一年

 

月日が流れ 記憶に風が吹き始める

湿ったような 乾いたような 涙色の風

記憶との対話は終わる様子はない

 

十二秒 十二分 十二時間 十二日 十二ヶ月 十二年

十三秒 十三分 十三時間 十三日 十三ヶ月 十三年

十四秒 十四分 十四時間 十四日 十四ヶ月 十四年

十五秒 十五分 十五時間 十五日 十五ヶ月 十五年

思い出に生きるその人もまた 涙色の風に吹かれているのだろうか

十六秒 十六分 十六時間 十六日 十六ヶ月 十六年

十七秒 十七分 十七時間 十七日 十七ヶ月 十七年

十八秒 十八分 十八時間 十八日 十八ヶ月 十八年

十九秒 十九分 十九時間 十九日 十九ヶ月 十九年

二十秒 二十分 二十時間 二十日 二十ヶ月 二十年

 

遠く彼方の記憶を望遠鏡で覗いてみる

関係性は確かに途切れていることを確認

ふたりの思い出が増えることはないことを再確認

確認の記憶が対話の時間に加わる

不在であるその人が語ることはない

その人の不在に語りかける時間が増えていく

二十一秒 二十一分 二十一時間 二十一日 二十一ヶ月 二十一年

二十二秒 二十二分 二十二時間 二十二日 二十二ヶ月 二十二年

二十三秒 二十三分 二十三時間・・・・・・ 

語りかける時間が思い出の歴史を築きだした頃

二千十一年 六月 三十日 二十三時 十七分

乾いた涙の跡に 生ぬるい涙が満ちた

 

 

 

「ボンちゃん、ゴリラは記憶を涙で濡らすことある?」

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2011.07.01

人生のシナリオ

たとえば、2011年6月に起きたある偶然が、

その後の人生を180度変えていくようなことにだってなる。

けれどそれはもしかしたら、

私たちが知らないだけでシナリオ通りだったりして…。

ふと、そんなことを考えることがある。

「偶然」を辞書でひくと、

「何の因果関係もなく、予期しないことが起こること」とある。

その対立的な言葉「必然」をひくと、

「必ずそうなること。それよりほかになりようのないこと」とある。

たとえば、

20年前に好きだった人の名前を何気なくネット検索してみたら、

偶然に同じ名前を見つけ、

メールを送ってみたらその人物だった…、

そんなことが起こりうるのが今の世の中である。

それが「偶然」なのか、

シナリオ通りという「必然」なのか判断はつかないが、

人生のシナリオが存在すると考えるならば、

それぞれのシナリオが時々において一致していることは確か。

その後の二人のシナリオの行く末もまた知る由はないが、

そんな稀有な関係性に人は運命を感じずにはいられない。

「運命」、辞書には次のように記されてある。

「人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸のめぐりあわせ。運」

 

20年前のその人は、

20年後に、20年前のままの同じ人ではない。

もしも再会することになれば、

お互いの心に新たなる思いが加わることになる。

その時に得る“思い”までもが、

シナリオにあるものなのだろうか…、

ふとそんなことを思った2011年7月1日の金曜日だった。

 

「ボンちゃん、ゴリラは偶然とは必然だと思う?」

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